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8月に読んだ本

年間に100冊の本を読もうという意気込みで始まった「百冊挑戦」。月に8冊か9冊のペースで読み進めば目標到達という計算だ。これまで、写真集を眺めるだけという本も含めて、なんとか1ヶ月に8冊ほど読んできた。ところが今月はどうしたことだろう。3冊しか読めていない。3冊である。月末になって読んだ本を数えてみて震えた。何があったのか。お盆休みが長すぎたか。いや、長すぎれば長過ぎるほど、本を読む時間はあったはずではないか。アマゾンプライムビデオやネットフリックスを観すぎたか。連続もののドラマを追いかけてしまったか。いや、そんなことはしていない。それならなぜだ。なぜ3冊なのか。思い当たるのは、複数の本を同時に読み進めていて、結果的にいずれも読み終えることができなかったということくらいだ。机の上に積んである本を眺める。『エマソン』『エマソンと三人の魔女』『カーライルとエマソン』『エマソンの自己信頼』『自己信頼』『田舎のパン屋が見つけた腐る経済』『菌の声を聴け』『コンヴィヴィアリティのための道具』『ロストシティTOKYO』といった本が積まれている。9冊だ。そうか。9冊の本を併読していた結果、どれも最後まで読めなかったということか。それなら来月が楽しみだ。これらがすべて読めたうえで、さらに来月用の本も何冊か読めていることになるのだろう。そんなことを期待して、今月は3冊の本をここに紹介するに留める。


▼『レイジーマン物語』

これはDVDブックという形式の本である。1時間強の映像と、1時間くらいで読める70ページの文章からなる書籍だ。合計2時間くらいで読み終えることができるという点では、普段読んでいる他の本と同じだけの時間をかけて内容を理解するものだといえよう。その半分が映像になっていることで、文章では想像できなかった風景を直接観ることができる。

映像には辻信一さんが登場するのだが、そこではほとんどしゃべらない。その分、文章で内容を解説してくれている。本書は、タイの山に住むカレン族という人々の神話やライフスタイルを紹介する、という内容である。主人公となるおじいちゃんは、自らをレイジーマンと呼ぶ。つまり「なまけもの」である。辻さんも日本で「なまけもの倶楽部」を設立し、怠けることが自然を守ることである、ナマケモノの速度から学ぼうと活動している。その辻さんが、ものすごい偶然を経てタイの「なまけもの」に出会ったのだ。

このレイジーマンは、自分の子どもたちやタイの若者などにカレン族の長老たちから学んだ話を聞かせる。それがDVDに収録されている。レイジーマンの息子は、森林農法でコーヒーを栽培し、それを焙煎して販売している。その商売は小規模だが、森林には70種類以上の木が植わっていて、季節ごとにさまざまな食料を人間に供給してくれる。草刈りや施肥などは必要ない。自然が自然のまま生きていく力を借りて、そこに人間が食べたい種を少し加えるだけ。うまくいけば生き残るし、ダメなら育たない。それだけのこと。これを繰り返した結果、どんなものがどの季節に育つのかが見えてきた。これがカレン族の知恵である。

ところが近代農業は種を企業から買い、肥料と除草剤を企業から買い、植え付けや収穫のための機械を企業から買い、収穫物はすべて企業が買い取ってくれるのだが、買ったもののローンが差し引かれて農家に対価が支払われる。これを増やそうと思うと耕地面積を増やさなければならないのだが、そうなるとより多くの種、肥料、除草剤、大型の機械を買わなければならない。その結果、対価は少し増えるかもしれないが、農業にかかる経費も増大することになる。タイでは一時期、こうした農業に絡み取られる農家が多くいたらしい。そこに危機感を抱いたレイジーマンは、自然が実を付けてくれるまで待つという「なまけものスタイル」を推奨した。レイジーマンの息子はそれにしたがって、現在でも森林農法を続けている。

そんな風景が映像で映し出されたあと、辻さんの解説文を読むと理解が進む。レイジーマンと出会った経緯、タイの歴史的な背景、レイジーマンや息子たちの生活が持つ力強さなどが理解できる。辻さんの文章を読んだ後、もう一度DVDを観るとさらなる理解につながるだろう。

レイジーマンの言葉のなかで、もっとも気に入ったのはこの言葉だ。「何よりおいしいのは米、何より美しいのは親切、何より冷たいのは水、何よりいい香りがするのは赤ん坊」。地域で生きる人の正直な気持ちだろう。これ以上のものを望むと不自然なことになる。米よりおいしいものを追うな。親切より美しいものを手に入れようと思うな。水より冷たいものを扱おうとするな。赤ん坊よりいい香りがするものを購入するな。そんなことをしようとすると、無理がたたる。不自然なことになる。余計なお金が必要になる。そのために、不要な労働を強いられることになる。人間はどこで満足すべきか。それは、米であり親切であり水であり赤ん坊なのである。

人間の親切より美しいものを手に入れようと、ギャラリーを巡って芸術作品を手に入れようとするとおかしなことになる。アート作品に値段を付けて、「美しいものを手に入れたければ金を払え」と迫ってくるアートシーンに、真の美しさを感じるだろうか。それよりも人間の親切さのなかに美しさを感じていたい。我々が東京ビエンナーレというアートイベントにおいて、ロイダッツというチャリティショップを出展したのも同じ気持ちだ。何より美しいのは親切だからだ。人々が寄付してくれたものを分類し、販売してくれる人たちがいて、それを購入してくれる人たちがいる。その利益は癌患者とその家族の支援のための資金になる。人々の親切がつながるコミュニティこそが、何より美しい作品なのではないかと考える。レイジーマンの考え方に、我々のアートが考えるべき原点を見た気がする。


▼『不道徳教育講座』

小説を読むのが苦手な僕は、三島由紀夫の本を読んだことがない。たまに三島の小説を絶賛する人がいるのだが、そういう人の多くは小説通であるため信用できない。小説が好きだという人は、僕が最も苦手なタイプの小説を褒め称える。それを薦めてくる。断っても断っても薦めてくる。

そういうことが何度かあると、相変わらず小説は好きになれないのだが、三島由紀夫という存在自体が気になってくる。なんだか変わった人のようだから、きっと見るべきところはあるのだろう。しかし小説は読めない。となるとエッセイ集を探すしか無い。ということで見つけたのがこの本である。タイトルが良い。『不道徳教育講座』である。

この本は女性誌の連載を単行本化したものだ。だから、読み切りの短編が続く。1日1話読むとしても、それほど体力は必要ない。寝る前に読んで、クスクス笑っている程度でも2ヶ月ほどで読み終わる。内容は、三島がひたすら不道徳なことを薦めるものだ。

たとえば「教師を内心バカにすべし」と薦める。なぜなら、教師というのは生徒がこれから出会う大人のなかで、最も手強くない大人だからだ。あまりずる賢くなく、儲けようという下心がなく、給料が低いのに長時間労働に耐えている。だから生徒は先生に従うふりをして、内心バカにしていればいいのだ、という。先生に反抗しても意味がないというわけだ。

三島はまた「大いに嘘をつくべし」という。なぜなら、一度嘘をつくと、続けて嘘をつかなければ辻褄が合わなくなるからだという。だから嘘をつき続けなければならない。これはとても頭を使う作業である。続けるとなると精神力も鍛えられる。つまり、嘘をつき続ける人こそ、頭脳明晰で精神力のある人物になれるというわけだ。

「友人を裏切るべし」という項目もある。長く続く友情というのは、詳しく観察すると主人と家来の関係になっている。家来役のほうもそれでいいと思いこんでしまっている。だからこそ、たまには友人を裏切ることが大切だという。そのとき、友人は対等な関係に戻ることができる。定期的な裏切りを続けても成立している友情こそが本物であるというわけだ。

ほとんど冗談のような内容である。しかし、一見不道徳のように見えて、読んでいると「なるほどな」と思わせてくれる点がいくつかあるというのはうまい話の運び方である。

「できるだけうぬぼれよ」という項目もある。これはどんな運びになるか想像できるだろうか。見栄を張る人は嘘つきであることが多い。謙遜する人も嘘つきであることが多い。自信を持っている人はやっかいだ。それに比べると、うぬぼれている人は自分がそう思い込んでいるだけだから嘘はないし、自信家に比べて実力がないので扱いやすい。だから、見栄っ張り、謙遜家、自信家に比べて、うぬぼれ屋であるほうが良いという。

ほかにも「スープは音を立てて吸うべし」とか「女には暴力を用いるべし」とか「人の恩は忘れるべし」など、どういう話の展開になるのだろうかと思わされる項目が続く。女性誌の連載だけあって、女性目線を意識して書かれているところも面白い。これが34歳のときの連載だというから、やはり三島は独特な存在だったのだろうと思わされる。


▼『エマソンと社会改革運動』

『コミュニティデザインの源流:アメリカ篇』を書くにあたって、最初に取り扱いたいと思っているのがラルフ・ウォルドー・エマソンである。エマソンはドイツ思想や東洋思想などさまざまな思想を織り交ぜた独自の超越主義思想に基づいてものごとを捉えていたため、掴みどころがない上に理解しにくい人物であった。加えて、若い頃と晩年では主張するところが真反対だったりして、時とともに意見が変化していく人でもあった。

一方、比較的安定した考え方もある。それは、万物のなかに神のような崇高な存在があり、それを深く信頼し、直接観ることによって、宇宙の法則に反するような行動をすることはないという考え方である。その「神性」は男性のなかにも女性のなかにも、先住民の中にもアジア人のなかにも、アフリカ系アメリカ人のなかにも存在するし、動物のなかにも植物のなかにも存在する。さらには、土、水、空気、火、あらゆるもののなかに存在する。その神性は大霊と呼び替えてもいい。大霊はつながっているのだから、自分の神性を直観しなさい、というのである。これが彼の言う「自己信頼」であり、アメリカの学者はいつまでもヨーロッパばかり意識せず、自分たち自信を信頼しなさいという。ヨーロッパの学者とも大霊でつながっているのだから。

教会で牧師の言うことを聞く必要もない。何しろ、あなたは自分の中に神性を宿しているのだから、牧師を介して神と交信しなくてもいい。わざわざキリストを介する必要もない。あなたの中にある神性を直接観れば良い。そう主張したものだから、時の教会からは嫌われた。エマソン自身、牧師だったのに辞めることになる。エマソンの出身校からも出入り禁止を食らう。それでも彼は自分が信じる道を歩いた。興味深い人である。

そんな彼のことだから、社会改革は「個人が自らのなかにある神性を直観することを通じて成就するものだ」と考えるのも無理はない。改革運動を興し、その指導者の主張を聞き、「そうだそうだ!」と拳を上げるのはエマソン式ではない。指導者を観るのではなく、各人のなかにある神性、大霊を直観すべきである、というのがエマソンの主張だ。だからエマソンは、当時の先住民迫害問題、奴隷制問題、ジェンダー問題などに関わる社会改革運動から距離を置いていた。

しかし、エマソンの妻であるリディアン、叔母のメアリー、知的刺激を受けていたフラーなどの影響によって、徐々に社会改革運動に関与するようになる。著述家であり講演家であるエマソンのことだ。関与すればするほど、人々の共感を集めるようになる。「各人のなかに神性がある」と訴えるにも関わらず、「エマソンは正しい!そうだそうだ!」ということになる。自分の中に幾重にも渡る矛盾を感じながら、エマソンは運動の指導者になっていく。そのプロセスを丁寧に記したのが本書である。

本書は著者の博士論文が元になっているという。それを一般の読者向けに読みやすく書き直してくれたのだろう。エマソンに関する書籍は「読みやすい」とは言いにくいものが多いなか、本書は主張が明快であり、語り口が穏やかで柔らかい。エマソンの至らない点を指摘するときでさえ、エマソンに対する愛を感じる。読んでいて気持ちが良い文章である。

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