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3月に読んだ本

月に9冊が目標なのだが、今月もやはり遠く届かない。図録を眺めてなんとかしのごうと思う。

以下が今月読んだ本である。

▼『リーチ先生』

九州の小鹿田焼の里から始まる物語。とても読み進めやすい。古風な文章表現も無いし、難しい漢字も登場しない。とにかくスラスラとテンポよく読み進められることに配慮された文章である。そして、各章の最後がものすごく盛り上がる。だから、次の章が読みたくて仕方なくなる。70ページほど続いた「プロローグ」の最後に「え?お父さんなの?」という驚き!1章の最後には白樺派の有名人たちがぞろぞろと登場!2章の最後ではリーチがいよいよ陶芸と出合う!3章の最後ではイギリスへ行くことに決定!4章の最後ではついに理想の土を見つける!5章の最後ではリーチとの別れ!そしてエピローグでは。。。いやはや、次から次へと気になる出来事が起きる。いや、その出来事を章末にうまく合わせてくる。原田マハさんという方、なんとも巧みな章構成を生み出すものだ。架空の親子を主人公にして、バーナード・リーチ、柳宗悦、濱田庄司、富本憲吉の人間性をあぶり出すという手法も効果的だ。途中、濱田が登場したあたりから、主人公がいると辻褄が合わなくなるのではないかとドキドキしたが、架空の人物と濱田との役割をうまく分担させている。普段は小説をほとんど読まない私だが、これは一気呵成に読み終えてしまうほどの面白さだった。原田さんの他の作品も読んでみたい。


▼『民藝の歴史』

こちらも民藝に関する本だが、史実に基づいた解説本。白樺派や柳宗悦の活動から始まり、バーナード・リーチ、河井寛次郎、濱田庄司、芹沢けい介、外村吉之介、吉田璋也、棟方志功など民藝の有名人たちが登場する。著者は白樺派の志賀直哉の甥であることから、こうした人達と近い場所で過ごしてきたのだろう。充実資料に基づいた記述であることが感じられる。読みやすい文体であり、小難しい表現などは登場しない。写真などの資料も充実しており、当時の雰囲気を存分に伝えてくれる。前述の『リーチ先生』と併読しておくと、時代背景や人間関係などがより理解できることだろう。


▼『民藝:バーナード・リーチと濱田庄司 訪英100年』

原田マハさんの『リーチ先生』を読んで、リーチと濱田の関係をより深く知りたいと思っていたら、2020年7月の『民藝』がそんな特集号だった。ふたりがイギリスへ行って窯を開いてから100年という記念の年であり、さまざまな式典が計画されていたにも関わらず、世界的なコロナ禍によっていずれも延期や中止になったらしい。そのことも踏まえて、100年前の写真や100年間の出来事などをまとめた特集号となっている。『民藝』とは、日本民藝協会が発行する機関誌であり、関連する協会の会員になっていると送られてくるものだ。民藝館や工藝館は全国にあって、どこかの会員になれば機関誌を手に入れることができる。また、全国の民藝館などの入館料が割引される。思えばすごい仕組みを作ったものである。そんな仕組みを作った人たちが全員亡くなった後でも、こうして仕組みが残り続けているのがすごい。柳宗悦たちの壮大なコミュニティデザインだったといえよう。この『民藝』は第811号。月刊だから年間に12号しか発刊されない。いやはや、長く続いたものだ。


▼『泥象:鈴木治の世界』

戦後、八木一夫とともに走泥社を創設した鈴木治の作品集。2013年に京都国立近代美術館が主体となって開催された展覧会の図録である。壺の口をどこまで小さくしたら器ではなくなるだろうか?器でなくなるとすれば、それはなんだろうか?彫刻だろうか?まだ陶芸でいられるだろうか?そんなことを問うていた走泥社。代表格の八木一夫は、それを「オブジェ焼」と揶揄されることを気にせず、オブジェとしての陶芸を作り続けた。一方の鈴木は「オブジェ焼」という言葉が気に入らなかった。そこで「泥象」という言葉を使うようになったという。泥で森羅万象を作り出す営み。それが泥象だというのだ。一方で、鈴木はクラフトにも携わった。そちらは用途がある器をつくる行為だ。用途のないオブジェを作りつつ、用途のあるクラフトも作る。土を焼いて作るものであれば何でも取り組むという態度である。私の陶芸の師匠である松井利夫は八木一夫に学んだが、彼の死後は鈴木治に学んだ。だから八木と鈴木が気になるし、双方の作風や思想を学びたいと思う。作風という意味では、どちらもそれほど好きではない。どちらかといえば鈴木のほうが好きだ。作品に添えられた解説文を読むと、これまたどちらも好きになれない。詩的な表現が多く、哲学的な語り口が鼻に付く。もっと素直に語ることができるはずなのだが、解釈の多様性を担保しておきたいのか、明確な説明をしないまま放置する解説文が多い。作風も解説も気に入らないのなら、何が興味深いのかといえば、この時代に京都を中心に関西で巻き起こった「前衛芸術活動」の様相自体である。日本画の創造美術とパンリアル、いけばなの白東社(重森三玲)、書の墨人会、美術のデモクラートと具体美術協会。陶芸の青年作陶家集団、そこから生まれた走泥社、そして四耕会。同時代の関西で、さまざまな分野で前衛芸術集団が生まれた。これらの集団のあり方や取り組みの共通点や時代性から学ぶことは多い。八木と鈴木は、ちょうどこの時代を生きた実践者だった。だから気になる。鈴木が走泥社をちょうど50周年で解散させたことも興味深い。同じく関西で活動するstudio-Lもまた、今後どんな活動を展開すべきなのかを考えさせてくれる。なお、この図録は巻末の情報が充実している。「略年譜」としつつかなり詳細な年譜がまとめられており、「主要展覧会歴」もかなり詳しく記述されている。「文献目録」にいたっては、本人の著作や論文のみならず、取材された記事や他の人が鈴木について言及した論考なども網羅されている。仮に私が同様の情報をまとめてみようと思えば、過去を思い出しながら詳しい年譜を作成し、ワークショップや講演会や展覧会などの実績を引っ張り出して整理し、自分が書き散らかしてきた原稿を見つけ出してきたうえで、自分が取り扱われている記事も検索し直さねばならない。これらの作業は鈴木自身が行ったわけではなく、美術館の学芸員が素晴らしい働きをしたのではあるが、ある程度整理されていなければこれほどの情報を網羅するのは難しいだろう。人生100年なら半分を生きたわけだから、まずは前半生について情報をしっかりまとめてみたいと思わせてくれる。もちろん、私の図録を誰かが作る予定は全くないのだが。


▼『詩情のオブジェ:鈴木治の陶芸』

1999年に東京国立近代美術館工芸館が中心となって企画された展覧会の図録。鈴木治や走泥社のメンバーがどんなことに悩み、こだわっていたのかがよくわかる文章が掲載されている。古来、陶芸家たちは「使えるもの」を作ってきた。用途があるものである。ただし、使えればいいというわけではない。使えるし、美しいことが求められる。「用」と「美」の両方が必要なのである。陶芸にとっての「用」とは、つまり器であるということだ。器の口をどんどん小さくしていって、最終的にそれを閉じてしまったら「用」が消える。少しでも口が空いていれば、一輪挿しとしての用途もあろう。ペン立てとして1本のボールペンを挿しておくこともできよう。しかし、完全に閉じてしまうと用途がない。器たりえなくなる。しかし、中は空洞である。そこが彫刻と違う。だから、「中はうつろか?」という問いが大切になる。それはつまり、「見たところ器ではないようだが、それは陶芸か?それとも彫刻か?」と問うているわけだ。走泥社のメンバーたちは、陶芸における用と美のうち、用を捨て去って美だけを追求した場合に何ができるのかを探った。それは世間から「オブジェ」と呼ばれた。ところが、美だけを追求するのであれば、それが土から作られたものである必要はない。美しいと思う形を作る場合、それが土で作られるよりも木で作られたほうが美しい場合がある。あるいは石で作られる方が美しい形態もあるだろう。金属のほうが適している場合もある。美を追求する際に材料を自由に選ぶことができる人のことを彫刻家と呼ぶ。しかし、陶芸家はどうしても土を使って美を追求したがる。だから陶芸家の枠組みを脱することができない。そんな悩みが走泥社のメンバーにあった。さらに鈴木は考える。土を使うことから逃れられないのは仕方がない。しかし、ロクロを使うことからは逃れられるのではないか。陶芸家だからといって、必ずしもロクロを使わねばならないという法はない。美を追求したらロクロを使った丸い形ではなく、非整形な形に行き着いたということはあるはずだ。だからロクロから距離を置こう。ロクロを使ったほうが美しいと思える形があるのなら使えばいいが、ロクロを使うことを前提にして美を探し求めるのは間違っている。そう考えた。土を使うということからは逃れられないが、ロクロは必ずしも使わない。それで陶芸独自の美しさをどうやって作るのか。結論は「土が最も望む形へと導いていく」という方法だった。土の生理を理解し、土がなりたがっている形へと誘導することが、無理がなく美しい形を作り出すことになるのだろう。ロクロで強制的に作り出した円形状の形態が美しいのではないはずだ。しかし、ある種類の土については、ロクロで作り出す形になりたがっている可能性もある。荒々しく粘り気の強い土などはロクロとの相性が良い。そういう土ならロクロを使ったほうが美しさを創出できるだろう。だから鈴木は、ロクロから距離を置きながらも、手びねりだけでなくロクロ成形の作品も作り続けた。作り方を決めるのではなく、土の生理に従うことを決めたのである。だから作り方は適材適所。土が求めればロクロも使うという姿勢だ。陶芸について深く深く考えていた先人たちがいたことを実感する。そのうえで、先人たちが認めなかった陶芸の価値に「参加性」を付け加えたい。地域住民が陶芸に参加することで、その場にどんな価値を生み出すことができるか。ここに興味がある。鈴木はプロセスを芸術と呼ぶことに否定的だ。「土を置いて展覧会の会期中にだんだんヒビが入ってという式のことは僕は無理。焼いて形にして見てもらうということでないと困るわけでね。過程が芸術やとか、そういう事にはならん」と言い切る。もちろん、そういう作家がいてもいい。しかし、過程こそが芸術であると感じる作品が多くなってきた現代から振り返れば、「焼いて形にして見てもらう」ということだけが芸術だと思いこむことは惜しい。そう考えるから「用」を排除し「美」を追求するという姿勢になる。それも大切だが、誰もが触れて、形を変えることができる陶土を使い、人びとが参加して窯を焚く。こうした「祝祭性」を利用したアートプロジェクトは、まだまだ可能性を持っているように感じる。そこには「土の生理に従って生み出した美」に触れたとき以上の感動が生まれるかもしれない。ガラスケースに収められた「美しいオブジェ」を眺めたとき以上に人生を変えてしまう経験になるかもしれない。私はコミュニティデザイナーとして、そういう「参加の場」に何度も立ち会ってきた。だから感じるのである。陶芸における「参加性」には可能性がある、と。いま私が追求したいのは、陶芸における「作家性」よりも「参加性」のほうである。


▼『世界が注目する日本の介護』

介護や福祉から学ぶことは多いが、なかでも「あおいけあ」を経営する加藤忠相さんの言動は実践者だけあって直接的な学びにあふれている。コミュニティデザインは対人技術だから、その極めつけのような状況における対人技術が求められる介護現場で行われていることはとても参考になるのだ。「認知症の高齢者」を「ワークショップの参加者」と置き換えれば、我々が現場で留意すべきことに対するヒントがたくさん得られる。そんな本である。ワークショップの参加者と認知症の高齢者は違う、という向きもあろう。そのとおりである。しかし、老若男女が参加するワークショップで、基本的に考慮しておいたほうがいいことの多くは、認知症の高齢者に対して考慮しておいたほうがいいことの最大公約数になっているような気がするのである。たとえば、本書のなかでは「記憶の分類」という図が掲載されている。記憶は長期記憶と短期記憶に分かれ、長期記憶はさらに意味記憶(言葉の定義や固有名詞など)、エピソード記憶(過去に経験した出来事や思い出など)、プライミング記憶(他のことを想起するきっかけとなる記憶)、手続き記憶(過去に習得した技能や動作に関する記憶)の4種類に分かれる。このうち、認知症になっても壊れにくいのはどの記憶だろうか。短期記憶が壊れやすいのはよく知られるところだ。1時間前に食べた食事の内容が思い出せない。認知症の高齢者によくあることだ。では長期記憶はどうか。これは半分に分かれる。意味記憶とエピソード記憶は壊れやすいが、プライミング記憶と手続き記憶は残りやすい。これは認知症の高齢者についての話だが、果たしてそう割り切れるだろうか。ワークショップ参加者のなかで、1時間前に食べたものをすぐに思い出せる人は何割くらいいるだろうか。少なくとも私はそれが思い出せないときのほうが多い。同様に、言葉の定義や固有名詞、過去の出来事などが思い出せないことも多い。「えーっと、あの店、なんていう名前だっけ?」という言葉は、認知症の高齢者に限って出現するものではない。となれば、ワークショップのプログラムを考えるとき、短期記憶や意味記憶やエピソード記憶を必要とするものを避け、プライミング記憶や手続き記憶に基づくようなものをデザインしたほうが良いということになる。そのほうが、参加者同士が支え合い、自分の得意技を活かしてコミュニティに貢献できるようになるからだ。本書には他にも「環境が整っていること、それが人が動く条件」「よりよい人間関係こそがトップゴール」「その人の存在意義と強みにこそ着目を」「主体性を引き出す言葉のかけ方」など、ワークショップのプログラムやファシリテーションの技術についてヒントになることが満載である。本書を介護のための技術書だと考えるのはもったいない。ワークショップ、ファシリテーション、コミュニティデザインに携わる人もまた、本書から学ぶことがたくさんあるといえよう。もうひとつ。本書がいいのは物語部分が漫画で表現されていることである。これが理解しやすい。漫画と文章を組み合わせた本の作り方がとても効果的な内容なのである。コミュニティデザインも同様の特長を持つ分野だ。いつか、本書のように漫画と文章を組み合わせたような書籍を作ってみたいものだ。


▼『経済学の考え方』

studio-Lの東京事務所は、宇沢弘文さんという経済学者が住んでいた家のなかにある。不思議な縁で、宇沢さんの功績を世に伝えるお手伝いをすることになり、そのために事務所も当地へと移転させたのである。宇沢さんが主張した社会的共通資本という考え方は、まちづくりに携わる我々にとって勇気づけられるものである。また、何が社会的共通資本なのか、それをどうやって守るのか、などについては、それぞれの地域で話し合いながら決めていくべきだという指摘も、コミュニティデザインの必要性を後押ししてくれているような気がしている。そんなこともあって、宇沢さんに関する本は何冊か読んだことがあるのだが、本人の主張ではなく、宇沢さんが考える経済学ってどんなものかということについて読んでみたくなって本書を手にとった。このなかには宇沢さん自身の主張はほとんど登場しない。アダム・スミスからカール・マルクス、ソースティン・ヴィブレン、ジョン・メイナード・ケインズなど、有名な経済学者たちの人生や理論が登場する。宇沢さんが「この本は経済学の歴史書ではない」と書いているが、門外漢にとっては手頃な歴史書である。大まかに古典派経済学、マルクス経済学、新古典派経済学、ケインズ経済学という流れを理解することができる。ただし、1980年代後半に書かれた本なので、その続きは「反ケインズ派」とか「マネタリズムの経済学」とか、あいまいな表現で終わっている。新自由主義経済についての鋭い批判を期待しながら読んでいたのだが、この本はそこまで踏み込んでいなかった。そのあたりについては別の本で補足しておくことにしたい。


▼『芹沢銈介:その生涯と作品』

困ったときの芹沢銈介。今月もやはり1冊足りない。そこで芹沢銈介の図録を眺める。この図録はテーマ別に整理されたものではなく、芹沢の年齢や年代ごとに作品がまとめられており、その当時の芹沢の思想や言葉などを織り交ぜて紹介してくれている。1冊読むと芹沢の生涯を追体験したような気持ちになることができる。もちろん、それぞれのページにフルカラーの図版が掲載されている。通常、このふたつは別の本としてまとめられることが多い。つまり、芹沢の伝記はモノクロで分厚くて文章ばかり。一方、図録となると最後に年譜が掲載されている程度で、ほとんどは学芸員が設定したテーマによって作品が並べられる。この図録は、この両者をひとつに統合したようなまとめかたになっているので、芹沢の人生を追いかけながら、その都度作品をフルカラーで眺めたい人に向いている。芹沢銈介って誰?という人にはちょうどいい内容だといえよう。


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