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【インタビュー】ジョルジオ・モロダー 2013

ジョルジオ・モロダーがデヴィッド・ボウイやフレディ・マーキュリーなどとの交流について語ります。初出はヤマハのウェブサイト。


ジョルジオ・モロダーは、世界で最も多くの人々をダンスさせてきた音楽家の一人だ。ブロンディやアイリーン・キャラ、ドナ・サマーなどに曲を提供、プロデュースを手がけて、時代を踊らせてきたという点で彼は、ヨハン・シュトラウスやコール・ポーターなどと比較することが出来るのではないだろうか。
「シュトラウスと比較されるなんて嬉しいね」ジョルジオは笑うが、その対比が決して大袈裟すぎるものではないことは、彼自身が最もよく知っているだろう。
ダフト・パンクの新作『ランダム・アクセス・メモリーズ』にゲスト参加、人気再燃の気運が高まるジョルジオが2013年5月、初来日公演を行った。「コール・ミー」「ホット・スタッフ」「ネバーエンディング・ストーリー」「フラッシュダンス/ホワット・ア・フィーリング」などヒット曲が次から次へと飛び出す贅沢なステージで、DJクリス・コックスと共に、彼はヴォコーダーやパッドを駆使して楽しませてくれた。
73歳にして初来日公演。50年にわたって音楽活動を行ってきたジョルジオだが、ステージ・パフォーマーとしては1年生。大ベテランにして新人の彼に、その過去と現在、そして未来を語ってもらった。



●”初来日公演”ですが、日本に来るのは今回が初めてですか?

いやいや、過去20年のあいだに少なくとも10回は訪れているよ。ソニーとの音楽関係の仕事や、東宝との映画プロジェクト...北京オリンピックのために曲を書いたときも、中国から帰国する際に、日本に立ち寄った。でも、日本のステージに立つのは初めてだ。それは当たり前だよ。ライヴをやるようになったのは、今月からだからね(笑)!ニューヨークで一度やって、それから日本に来たんだ。世界中からオファーが舞い込んできたし、ツアーもやるだろうけど、最初に日本でプレイすることが出来て光栄だ。

●どうして今までライヴをやろうと思わなかったのですか?

ステージ・パフォーマーよりも、コンポーザーとプロデューサーになりたかったんだ。そっちが忙しくて、半世紀が経ってしまった。でも去年、ルイ・ヴィトンで働く友人が「パリでやるファッション・ショーで、12分だけDJセットをやらない?」と言ってきたんだ。その後、エルトン・ジョンがカンヌで開いたチャリティ・イベントでもDJをやって、さらにニューヨークで講演会をやったついでにDJセットもやることになって、話が転がっていった。ニューヨークでのショーは500人収容の会場に1,000人以上が集まって、すごい盛り上がりだったよ。

●若い頃、1950年代や1960年代にはライヴ活動はしなかったのですか?

1969年頃、カンタジーロというツアーに参加したことがある。30アーティストが50日間でイタリアの50都市を回って、毎晩1曲プレイするんだ。でも、毎晩1時間半ステージに立ったわけではなく、ポップやロック・バンド的なツアーではなかったよ。いわゆる”ライヴ”をやるのは、これが初めてだ。

●日本ではイタリアやドイツのプログレッシヴ・ロックが大変人気がありますが、当時、彼らと交流することはありましたか?

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