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求む My familyヒストリー(知識編)

今回は、知識編とタイトルをつけました。

戸籍で取得できる情報を総て精査したけれど、家系図は作って見たけれど。
なんか、ボンヤリしてるな。
先祖の名前は分かったけれど、家って代々何をしてきた家なんだろう。
こう言った感想を持たれる方が多いのかも知れません。
私も実を言うと同じでした。

祖父が存命の頃に
「家は、武士の家で小島藩に仕えていた武士だった」
「その昔は、小さな城だが城主だったが落ち延びて帰農した」
そんな話しを聞かされて育ちました。

それらは口伝であり、祖父も答えを探していたらしい。
彼は、何か答えを見つけて甥に「ここが我が家のルーツだ」と寺で話したようですが。肝心の甥は、興味が無く。全く聞いた話を覚えていないという残念なオチ付き。
しかも、調査結果をまとめる前に祖父は心筋梗塞で他界。

私自身は、祖父が亡くなった時は小学校2年生で難しい話は分からない年齢でした。ですから、大人になって戸籍調査はしてみたけれど、戸籍以上のことはほぼ分からない。
そんな言う状態でした。

ここで、色々と調べていく間に分かった事を書いてみたいと思います。
やはり、何も知らずに前回書いた文献調査をしても、ピンとこない事もあります。折角なので、色々調べるのなら知って置くとピンと来るかもな事を今回は書いてみたいと思います。

①江戸期は、戸籍は無かったのか

→戸籍は無かったけれど、百姓から年貢を取り立てる為の五人組(学校で習いましたね?)に属する必要があり。百姓を把握する必要がありました。
また、キリスト教が禁止されていた関係で、人々は必ずどこかの寺の檀家である必要がありました。

そのため、村人はどこの寺に属しているのかや、家族構成(嫁の実家等も含み)などを支配者に報告する義務がありました。

報告するための家族構成等の情報を収めた物は、庄屋や寺などが作成。
控えと、提出した原本と2冊ある事が多かった様です。
これが宗門人別改帳と言われ、江戸期の戸籍に近い物になります。

また、武士は宗門人別改帳には名前は書かれず。
仕え先の名簿に名前があることが多かった様です。
藩や幕府に仕えていれば、分限帳と言う物に名前が記載されています。

武士とは、現在風に言い換えれば。
幕府=国家なので、幕府に仕える者は国家公務員的な感覚です。
藩=地方で、藩士といえば、地方公務員的な感覚で良いと思います。
当然、登用試験などもあったようです。

今で言う所の履歴書に近い物も提出していました。
由来書と言われるものです。

現在の履歴書は、家族構成すら書く欄が有りませんが。
40代以上の方ならば、最初履歴書を書いた時に家族構成や年齢を書く欄があったのを記憶されている方も多いのではないでしょうか。

由来書は、それに近く。
自分の家は、どういった家系で先祖はどう言う人かという血筋にまつわる内容が書かれた物だとのこと。分かり易く言えば、家系図を添付して提出してね。というイメージでいてください。少し違いますが。

先に出て来た、分限帳とは違うのかと言われると思いますが。
分限帳は、職員名簿兼・給与明細だと思っていただけたら良いでしょう。

Aさんが、何の職に就いていて。
給与がどれだけ支払われたのかと言う事が書かれています。
ですから、武士の家系を調べる時は分限帳と由来書が手がかりになります。

一番調べるのが難しいのが、商人や職人。
また、幕府や藩に抱えられている武士に仕えていた「家来=陪臣」と呼ばれる方々です。公の文書には名前が残りにくい様です。
※分限帳に藩(公)の仕事をしていた商人や職人が書かれている例もあり。

②江戸期・明治期の身分と婚姻について

→江戸期までは、それぞれの「家の格」を分かっていたと思われます。
なぜなら、年頃になると親が自分の家の格に相応しい相手を見つけてきて婚姻する。これが、この時代の婚姻です。

「好いた惚れた」で結婚する方は、ごく少数であったでしょう。
当然、相応しい家が分かるということは「自出」を皆知っていてということだと考えて良いと思います。

明治期は、まだこの「家の格を合わせる」という時代であり。
自分の家系が分からなくても、婚姻相手の家系や、養子先、養子元の家系を調べることで色々と分かることが多い様です。当然、家の格が同じだからです。職業や、家柄が釣り合いが取れないと婚姻を結ぶことは珍しい様です。

面白い話しですが、実家の家系は(~明治迄)嫁様の実家を調べると。
殆どが戦国期の武田家来の家で構成されています。
そこから推測されるのは、我が家も「武田家家来で、滅亡時に帰農した家」という方向性で調べて行くのが合理的と考えます。

他にも、その家の経済活動の範囲が婚姻先で分かると言われています。
農家であるのならば、殆ど同じ村の中で婚姻を結ぶ事がほとんどです。
経済活動範囲は、その村内で完結しているからです。

ただ、商人であったり。職人であったり、武士であるなど。
経済活動範囲が広い場合は、江戸期であっても他県から嫁を貰う事も普通にあったようです。経済活動範囲が広い家ほど、経済状況の良い家だったでしょう。墓石の有無も関係してきますが、又次回にでも。

③名前から分かること

→当然ですが、名前からも分かることがあります。
武士であれば、身分を呼び名にしている人もいますね。
「丹後守」「主殿」等です。これが、何かに書かれていれば
確実に武士でしょう。

他には、諱(いみな)を持っているのが名字帯刀の方の例です。
必ずしも、諱がある=武士というわけでは無さそうです。

ただし、一般庶民には、諱はありません。
署名をする際に、書いたりするようです。
基本的に諱は呼んだら失礼な物であり。
公式文章を書く場合に記載することが多い為、下級武士は書く機会もなく。
本人も忘れてしまったという例もあったそうです。

我が家の先祖も、諱が墓石に刻まれており。それなりの立場であったことは分かりましたが、諱が分かったからと言って調べが進み訳では無い様です。

他にも、襲名という物があります。
家を継いだ者が、先祖代々から引き継ぐ名前があり。
家を継いだ時から、名前を引き継いだ名前に変えるという例があります。

この場合は、当主になる前の名前も有ると思って間違いありません。
家族には、当主になる前の名前で一生呼ばれていた例もあります。
ただ、家の外では襲名した名前で呼ばれていたかも知れません。
公の文章(宗門人別改帳等)には襲名した名前で記されていると思って間違い無いです。

これを覚えておくと「源五郎」さんが代々続くお宅は、上の代もずっと源五郎さん。古い書物で先祖を探す時も、源五郎さんを探しましょう。という調べ方も出来ます。

他には、先祖が仕えていた方から「名前の1文字を貰った」という名誉を代々伝える為に、漢字の一文字を代々継承していくケース。
こういう襲名の場合は、それなりの家系である可能性が高いです。
例として、源頼朝の「頼」の字や、織田信長の「信」を名乗る事を許された場合。代々、名前のどこかにこの”一文字”が入るという感じです。

前者は、百姓などの平民のお宅に多く。
後者は武士など階級層に多い様です。

長くなりましたので、今日はこの辺で終わりにしたいと思います。
色々な情報を精査する場合、時代背景や基礎知識を入れて置く事も大事なようです。