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襲名ってなに?

先祖調べをしていると、ぶち当たる大きな壁として『襲名(しゅうめい)』というものがあります。歌舞伎界などで、現代でも使われる言葉ですが。
先代の名前を、引き継ぐと言う様な感じで使われます。

江戸期などは、農家でも襲名をすることがあり。
ひいじいちゃん→勘藏
じいちゃん→勘藏
とうちゃん→勘藏
本人→勘藏

なんて事も普通に有ったということなんですね。

この場合は、本名が別にあって。
家督を相続した時点で、先祖代々の名前を襲名(引き継いできた)する。そんなイメージかと思います。

有る程度地域で立場が高いお宅ですと、別の家が同じ名前を使う事は無く。
「勘藏」さんを引き継ぐお宅があれば、他の家が勘藏さんを名乗る事はまず無いので、先祖の名前に「勘藏」さんがあれば、その家の分家である可能性があると判断して良いそうです。

さて、なぜこんなことを書いたかというと。
我が先祖に「勘重」という名前を名乗っている方がいます。

我が家の墓石には、勘重の妻の記載があります。

勘重は、宮大工で国宝である某寺の五重塔を建築したと言われています。しかしながら、この五重塔は江戸から有名な宮大工を招致して建築したそうです。

大型の建築物だった関係で、宮大工が足りず地元の村々から宮大工を集めて建築したそうです。ですから我が先祖は、村々から集められた宮大工の1人であっただろうと思います。

なぜ、これを書いたかというと。
上記の勘重の妻さんの没年月日は、1882年。
しかしながら、上記お寺の五重塔が完成したのは1749年。

普通に考えたら、建築に携わる宮大工と考えれば・・・。
勘重さんは、30代くらいですかね。

仮に35歳として、勘重さんの生まれは1714年。
奥さんが、1882年に亡くなるなんてあり得ないですよね。

勘重さんが生まれてから、奥様と言われる方が亡くなるまで168年経過しています。仮に奥様が75歳で亡くなったとしても、それでも93年の差が有ります。

江戸期で有ることを考えると、2人か、3人の勘重さんが間に居ると思って間違い無いでしょう。我が家は、墓石の記述から見ると、栄養状態も良いらしく。江戸期の女性の平均寿命は80歳に迫る勢いです。
ですから、75歳として計算しています。

藩主の江戸藩邸の修善も請け負っていたらしく、旅程や修善の材料などを記載した古文書も残っているというのでかなり余裕のある暮らしは出来ていたのでは無いかと思います。

何はともあれ、少なくとも何人もの勘重さんがいらっしゃるようで。
延々勘重さんが続くと、現代人には謎しか残らないのです。

しかも、庄屋宅と菩提寺が火災で焼けてしまい。
宗門人別改帳(江戸期の戸籍もどき)も、無く。
これ以上の遡りは出来ないという状況では有りますが。

この襲名は、ある時は先祖を特定する手がかりにはなりますが。
色々な意味で、面倒な感じでは有ります。