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横丁暮色 その2~エンターティナーの系譜~

 
 


 

 ◆ああ、俗人


 先に池袋の人世横丁の思い出を書いたところ、いろいろリクエストが寄せられた。
 当時は、ただダラダラと目的意識もなく吞んでいた。初めからそのつもりなら、書くネタはいっぱいあったはずだ。俗人の哀しさとしか言いようがない。
 

 ◆流しの街


 それでも、忘れられない話はある。
 人世横丁の近く、通りの名も店の名も思い出せない。暗い店だった。迷い込んだも同然だった。とりあえず、カウンターに座った。年老いた、大きな猫がいて、まるで自分の指定席のようにカウンターに寝そべっていた。
 ママは猫を追い払い、酒をつけてくれた。よもやま話に、箱崎普一郎のことが出てきた。下積み時代、その店をベースキャンプに、ギターを持って流しに出ていた、という。
 新宿もさることながら、池袋の飲み屋には流しが似合った。箱崎普一郎には「熱海の夜」「抱擁」などのヒット曲がある。生で聴いてみたかった歌手の一人だ。1988年、43歳で亡くなった。肝臓がんだった。

 ◆心の闇


 これも故人の話になる。
 人世横丁はおっかさんの店の近くに、沖雅也の根城があったと聞いた。そこから夜の商売に出撃していたらしい。おっかさんもよく知っていて、まるで我が子のこと話すような口ぶりだった。横丁でみんなから愛されていたことは間違いない。
 沖雅也は池袋からスターダムにのしあがり、1983年、31歳で京王プラザホテル最上階から飛び降り自殺した。他人にはうかがい知れない心の闇を、人は抱えている。

 

 ◆青江三奈様々


 人世横丁や美久仁(みくに)小路の知名度を全国区にしたのは、誰あろう青江三奈である。
 1969年、28歳で出した『池袋の夜』が大ヒットした。都内の高校を卒業後、西武池袋店の店員をしていたというから、ご当地との縁には浅からぬものがある。
 大ヒットを受け、池袋をパレードしたらしい。ブルースの女王として君臨し、飲み屋街のママたちには、もう雲の上の人だった。2000年、59歳で死去した。すい臓がんだった。

『池袋の夜』を聴いていなかったら、私が人世横丁をさまようことはなかっただろう。
「池袋は変わりましたよ。人世横丁はなくなりましたよ」
 などと報告したら、3人は
「えぇっ⁉」
と、絶句して、顔を見合わせることだろう。

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