松井栄一『50万語を編む 「日国」松井栄一の記憶』小学館
本書は、『日本国語大辞典』の初版から第二版までの編集委員を務めた松井栄一が小学館新書で著わした文章や対談、座談会の記録を収めたものである。佐藤宏氏が、初版から50年を経過した『日本国語大辞典』に携わった松井栄一の記録を残すため編集したものでもある。
松井栄一は、『大日本国語辞典』を編纂した松井簡治の孫であり、父の松井驥は祖父の辞書作りを手伝い、新しい辞書作りの準備をしながら、還暦前に世を去っている。親子3代にわたって辞書作りをした家系である。
松井栄一は、旧制第八高等学校を「理科」で受験して合格したが、大学は東京大学国文科に迷わず進学した。これは、辞書作りに関わりたいの意思が自然にそうさせたものである。しかし、周囲には松井簡治の孫であることは公言しなかった。
しかし、大学卒業後、高校教師をしてるとき、大学時代の恩師の時枝誠記から、『例解国語辞典』の原稿作成に携わることを依頼される。その仕事に打ち込んだのは、父が辞書の刊行できないままで死んだこともあった。
1961年、祖父と父が残した増補カードを元に辞書を作らないかという話が小学館から舞い込むこととなる。増補カードは、およそ7万~8万語ほどあった。増補カードだけでは済まないが、祖父や父の増補版を出したいという遺志を継ぐこととなる。
辞書作りの愉しみは、「用例採集」あると言う。小説など出典がはっきりした「実例」のほかに、出典がない「作例」があり、辞書作りに必要なのは実例である。
その語の存在を証明するには、用例は最低2つ必要で、出典があれば使われた時代がわかり、意味の理解を助け、用法、発音、表記について教えてくれる。用例採集カードを作ることは、辞書作りの基盤となる大事な作業である。
現在の国語辞典は、言葉の配列を50音順に配列しているが、五十音順だけでは先後を決められない。「冬季」「投機」「陶器」「登記」の読み方は「とうき」で同じであり、各辞書まちまちである。
どの言葉を辞書に収録するかという「立項」は、『日本国語大辞典』の場合、松井栄一ひとりで、1項目に平均25秒で選択した。複合語や派生語になると、大きな問題で無制限に入れることはできない。用例を見れば見出しは不要との意見があるが、見出しを立てて用例を挙げることで、いつから使われているか示すことができる。
立項ができても、用例が足りないと、核として採り上げた資料から集中採集する。語釈は大勢の人による手分けで書くが、類義語の間の違いを示すためにも「言い換え」を脱却する必要がある。さらに、記述の統一の作業もある。
「おかあさん」は、明治36年の国定教科書に取り入れられて広まったというのが定説であったが、文化6年刊行の『誹風柳樽』の47編にある用例が『日本国語大辞典』第二版に掲載された。
「浮き足立つ」の用例がなく、明治中~後期の小説を30冊読んで、ようやく用例2例を見つけたことがあったが、これは効率的でない。「明治初期」「明治中後期」「大正・昭和初期」「戦後」と4つの時代の作品を毎日2ページずつ並行読みして言葉を拾っていることを30年近く続けている。(2014年4月)
祖父の『オックスフォ英語辞典』に匹敵するような日本語の辞典を作ろうとした営みを引き継いだ松井栄一を通して、辞書作りののみならず言葉についての知識を得ることができる興味深い書物である。日本語に関心のある人は一読する必要がある。なお、松井栄一は2018年12月3日没。