見出し画像

*1 地域コミュニティで居場所って!?

■正解のない時代だから

未来を作ることができるんだ!って、堂々と事業にできるのは本当におもしろいなーと思います。(食っていけるかは別にして・・・そこが問題!笑)
なので、ここで書くことも、私自身、これが絶対、正しい!とも思ってませんし、自分自身の考え方や価値観も日々、変化しています。他の方の取り組みを見て、「すごい!」と関心したり、「こんなやり方があったのか!?」と気づきをいただくこともたくさんあります。
でも、それがこの時代の醍醐味。
きっと、どのような取り組みも手探りでやっていて、それぞれの取り組みを勉強させてもらって、自分がいるフィールドに必要なことをカスタマイズしていけばいいのだと思います。そして、自分たちでは担いきれない部分は、それができる人たちにお願いして、連携していけばいいのだと思います。
ニーズが多様化した今、常にベターを選択し、まずは前進していくことが大切なのでないかなと自分に言い聞かせ、奮い立たせながら日々過ごしています。

■「地域コミュニティ」は安心・安全の場が大前提

「地域コミュニティ」と聞いて、浮かぶ景色は千差万別で、それぞれ全く違う景色をイメージする言葉だなと思います。
一緒に活動する・働くコアな仲間とはこのコミュニティの定義はほぼ同じ理解(共感)が必要であると思いますが、そこに集う人たちとは特にこのコミュニティの定義は一緒にする必要はないのかなと思います。その人なりに感じ、定義し、居心地がよいと感じる人が集えばいいんじゃないかなと思うぐらい、緩やかでいいのかなと思っています。
地域コミュニティという塊は、時に住んでいない人や、考え方や価値観が違う!といって、排除してしまうこともあります。排除して、鎖国状態になると、途端にこのコミュニティは澱んでいく感じがします。一方、排除された人は孤独を感じるかもしれません。
地域コミュニティはオープンであるほど、多様な人を受け入れることができます。すると、地域コミュニティ内は硬直化しません。結果、いろんな人が豊かに過ごせる持続可能な居場所が生まれます。多様であればあるほど必要なことは「対話」です。「対話」ができる安心・安全の場がある地域コミュニティは豊かだと思います。

■地域コミュニティでなぜ居場所が必要になったのか。

私自身の原体験として、泉北ニュータウンの団地で生まれ、小学5年生まで団地で育ちました。その頃は、同じ階段の世帯はほぼ子育て世帯。だいたいどこの家にも子どもがいたので、いろんな部屋にお邪魔していましたし、特に約束をしなくても、近くの広場に行けば、誰かがいてそれに混じって遊ぶという日々でした。買い物に出たはずのお母さんの帰りが遅く、「絶対下でしゃべってるでなー」と4階の窓から下を見たら、近所の人たちで井戸端会議をしていましたし、ちょっと心配なおじさんが出てきても、いろんな大人の目があったので、大人たちは把握しつつも、「気をつけや」程度の問題でした。
27年ぶりに団地に戻ってきて、暮らしながら、またやまわけキッチンで働きながら、耳にする今の声は、「同じ階段なのに、住んでいる人がわからない。」、子どもが外で遊んでいたら、「うるさい」といって怒られる。ボール遊びができない。子どもが見えない。あそこに住む一人暮らしのおばあちゃんが気になるけど踏み込めない。など、関係性が希薄になっていることを感じます。
昔は、関係性が豊かで、安心・安全の場があったはずの地域コミュニティが、今は、安心・安全の場が自然には成立しにくくなりました。
あえて、地域コミュニティの中で「居場所」という場所を作る必要が生まれてきたのだと考えています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?