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平家物語を読んで

平家物語を読んだ。魂の共鳴。それから学ぶ意味に思い当たった...


 ずっと気になっていた平家物語を読んだ。原文ではなく、『1日で読める平家物語』(吉野敬介著)というスーパー入門書だけれども、心に響いた。

 内容については書かないけれど、皆さんご存知のように平家の栄枯盛衰の様が躍動感あふれる文で書かれており、原文は音で聞くと力強さでグイグイ引っ張られるようなリズムがある。そして仏教の無常観や当時の末法思想が至るところにあらわれている。

 おごり高ぶる清盛、冷静で清盛への’孝’も天皇家への’忠’もある重盛、貴族化して弱腰で戦に負けていく清盛の孫たち。いよいよ追い詰められ、海にも都はあるなどとなだめられ、泣きながら沈んでゆく幼き安徳天皇。平家に情けをかけ兄に疎まれるスーパースター義経。などなど、裏切り者でも卑怯者でも憎めない。人間ってこうだよな、と魅力に感じる人物が大勢出てくる。

 そしてヒロイン建礼門院徳子。清盛の娘であり、天皇の妻、安徳天皇の母となった彼女は、天国も地獄も、人生というか時代そのものを、その目で見、その身体で生き抜いた人間。 その後、寂光院という京都のお寺でひっそりと仏道修行に励んでいる。そんな彼女を後白河法皇が訪れる。彼はその二枚舌で平家を滅亡に導いた憎き張本人であるが...

 今日スーパーで買い物をした帰り道、日が暮れる間際の西の空で薄紫色の雲がたなびいていた。徳子の最後の場面に似ていた。 実際は本文のように音楽ではなくて鳥の声と車の走る音が聞こえていたが。 信号待ちをしている間に空を見上げると、徳子も同じ夕焼けを見たのだな、とふと感じた。そう思うとふいに全身に今日読んだ平家物語がずずずっと浸透した。

 建礼門院徳子と後白河法皇が会話する中で魂が鎮められていくように、読者である私自身の魂さえも徳子の生きた人生に共鳴したのだ。フィクションであっても、死者は生きている。我々は死者の声を聞くことができる。 

 これこそが、学ぶ意味ではないのか。

 死者は過去から我々に語りかけている。つむがれた物語、自分の発見や勉強の成果、見たもの聞いたもの、心の象を我々に伝えようと常に語りかけている。それは大きな未来への投機であり、希望だ。我々を信じているからこそできる行為だ。 なんてことだろう! なんて偉大な人たちなんだろう!

 私達にはそのことばに耳を傾ける義務があるのではないか? 信じてくれた人間たちに私ができることはなんだろう。

 我々には、少なくとも私には、死者たちのことばに耳を澄ます義務がある。それは同時に未来への責任でもある。 これが横断歩道を歩いている間に駆け巡った考えだ。

これが私の考える学ぶ意味だ。


手紙のように、ぽつぽつと続けていけたらなと思う。

 

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