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ソリューション・ジャーナリズムを試みる -震災と原発事故の伝え方― scene1


2013年初夏
「ヤマト、今ちょっといい」
自席でパソコンに向かって作業をしていると、部長からそう声をかけられた。席から立ち上がり、部長の後ろをついて歩いて向かったのは、職場の隅にある小さな打ち合わせ室。後付けの壁で仕切られた簡易なスペースには業務用の白いテーブルと4脚のイス。部長から話を切り出される前に異動の話なのだろうということは、2週間後に内示を控えていたためわかっていた。予兆もあった。2か月前、毎年行われる部長面接でそれとなく匂わされていた。ただし、どこに赴任するかは蓋を開けてみるまではわからない。候補地は北海道から沖縄まで全国47都道府県すべてだ。先の部長面接では「もし異動があるのなら仙台局を希望したい」と伝えていた。2011年に起きた東日本大震災の直後に現地に入って以来、定期的に取材に赴き、そのなかで宮城県塩竈市の人たちと親しくなるなど被災地で暮らす人たちの奮闘を見てきた。そのため、それ以外の土地に住んで震災とは関係のない取材をするイメージが湧かなかった。きっと違う場所で仕事をしても、取材をしながら「あの人たちはどうしているだろうか?」と思い浮かべてしまうような気がした。それならば見届けたい。ちょっと格好良く言うのであれば、震災直後に入った取材者として見続ける義務があるのではないか、そんな使命感のようなものがあった。しかし、希望は半分叶って、半分叶わなかった。

「赴任先は、福島」
部長は、少し早口でそう言った。それは希望を叶えられなかったことに対する申し訳なさというよりも、できるかぎり普段通りを装おうとしているように見えた。福島県。たしかに宮城県と同じ被災地だ。震災後に一度だけ取材に入ったこともあった。しかし、震災直後から何度も通ってきたのは石巻・塩竈、そして岩手の陸前高田だった。仙台局であれば、東北の拠点局として各地に取材に行けるが、福島局に赴任となったらまずは福島と向き合わなければならない。見届けたいと願っている人たちを継続的に取材するのは東京にいる今よりも難しくなるだろう。そして、気がかりがもうひとつ。原発事故。ニュースで流れている情報を何となく見るぐらいだったため「今って放射能はどうなんだろうか」と不安が頭をよぎった。そんな思いを見透かすように部長は少し力を込めて言った。
「万全を期しているから」
異動に関して断るという選択肢はない。もやもやした気持ちは消えなかったが、わかりましたと答えて、自席に戻った。平静を装い、パソコンに視線を落としたが、意識を仕事に戻すことは難しかった。福島への異動を受け止めきることができず、すぐに浮かんだのは両親だった。異動先が福島だと伝えたら何と思うだろうか。

 着任まではすでに1か月を切っている。与えられた時間はそう長くない。すぐに都内にある実家に顔を出すことにした。
「そういえば、福島に異動になった」
できるかぎり普段通りの口調で伝えた。父は神妙な面持ちで「そうか」と言い、母はなぜ息子が福島に行かなきゃいけないのかと狼狽えていた。父母ともに放射能への不安があることは明らかだった。2011年の夏、私が取材で何度も南相馬に入っていたことは両親も知っていたが、福島に住むとなると話は違うようだった。その気持ちは自分にもあるのだから、当然のことのようにも思えた。ただ、私と父は同じ会社で同じ仕事に就いているので、父も母もこの会社の異動が覆ることはないことはわかっていた。ひとしきり異動についての話が終わると、重い空気のままリビングで母が食事の準備に取り掛かった。そして、できる限り明るく振る舞いながら夕食を終え、私は実家をあとにした。

 数日が経っても不安は消えぬままだったが、別の思いも湧いていた。NHKは、地方にいながらも全国に発信できる数少ない映像メディアだ。NHKの地方局で勤務するディレクターは、だいたい7~8人。そのうち4~5人は入局とともに赴任した若手。入局10年前後のある程度の経験を積んだディレクターはわずか2~3人だけ。全国で働く多くのディレクターたちのなかの2~3人。未曾有の原発事故による混乱が続く今、NHK福島放送局で働く中堅ディレクター3人のうちの1人になるということは大きな意味を持つように思えた。震災直後から被災地に入ったディレクターとして使命感を持って働ける機会であることは変わらない。同時に少しばかりの野心も抱いた。何か話題になるような番組を制作するチャンスかもしれない。原発事故の真実を暴いてやろう、と。

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