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小板橋完寿先生の思い出


私の剣道物語5
西原武宏 教士七段 小板橋道場


小板橋道場の始まり

小板橋道場についてご紹介します。同道場は南林間の町道場から始まります。指導者は大正時代生まれの小板橋完寿先生です。先生の経歴について少し触れておきます。先生は若い頃剣道が強く、二十歳で当時の五段(当時の最高段位)を取得していました。剣道の強さを買われて、旧日本帝国陸軍の近衛連隊に所属して、天皇、皇后を護衛していました。終戦間近になって、激戦地である沖縄への出兵命令を受け、現地で塹壕を掘り、米軍と戦ったそうです。仲間の兵士がバタバタと戦死し、幸運にも所属部隊の中で、生還した三人の中の一人であったそうです。生前、戦争体験については、いっさい語らず、激しい沖縄戦を一度口にしただけでした。

小板橋先生と昭和初期の剣道

戦後は、剣道の専門家になる希望はあったようですが、陸上自衛隊に勤務され、定年で退官されました。自衛隊時代には、主に大将として大会に出場されていたそうです。
ご自身の剣道修行としては、現在の日本剣道形の創始者の一人である高名な高野佐三郎先生のご指導を受け、よく野間道場にも通って、稽古を積んでいったと語っておられました。当時の稽古は苛烈を極め、「気を失って倒れるとバケツで水を掛けられて起き上がり、また先生方に掛かっていくような稽古だったよ」と笑ってお話しになられていました。

このように昔の厳しく強い剣道を身につけておられた先生の心はお優しく、子供、大人に対してご指導上手でした。一刀流の流れをくむ剣道と言われ、先生の切り落としと胴技が見事でよく打突されたものです。一刀流の秘伝の技と言われる切り落としについて、ご指導いただけなかったのが残念です。

現在、小板橋道場で指導されている先生方に上段や二刀流を教え、旧日本帝国陸軍戸山学校で将校が学んだ戸山流抜刀道を指導していました。南林間の町道場の子供の数も増え、道場が狭くなり、大和警察署の近所に稽古場所を借りて、月、水、土曜日と週3回、2道場でお稽古があったと記憶しています。

神奈川県剣道大会優勝

小板橋道場の全盛時代には、市大会で、個人、団体戦とも良い成績を納めていました。先生ご自身も昭和四十四年の神奈川県剣道大会で優勝され、記念に真剣の太刀を授与されました。

神奈川県大会の優勝記念で小板橋先生に授与された真剣を構える西原先生

先生が大和市剣道連盟の会長であられた頃(第八代会長、平成元年〜平成七年)、現在の大和スポーツセンターが完成し、剣道大会が盛大に開催されました。(1987年3月29日、昭和62年)

大和スポーツセンター落成の頃

小板橋道場の稽古もスポーツセンターの武道場に移転し、先生もご高齢の身でご指導されていましたが、体調を崩され、残念ですが、七十七歳で他界されました。

現在、小板橋道場は先生のご指導を受けた先生方が指導者となって、後輩を育てています。稽古は週一回(土曜日の午後)と少ないですが、50年という長い歴史をもつ道場を絶やさぬように、また日本の文化の一つである剣道を正しく後輩に伝承していくように日々努力しております。

私と剣道の出会い

最後になりますが、私と小板橋道場の関わりについて、お話します。当時勤めていた会社でのストレスもたまり、精神的にも疲労していた頃、自宅からそれほど遠くない場所で、たまたま小板橋道場を見つけ、剣道でも始めてみようかと、四十歳で初めて竹刀を握りました。最初は子供達と一緒に切り返しや基本練習をしていましたが、稽古を重ねるうちに、小板橋先生から初段を受審してみないかと言いわれ、初段に合格させていただき、以降、現在に至っています。
 
六段取得にあたっては、何度挑戦しても不合格で、途中で嫌気がさしてもう諦めようと考えたものでした。その度に、道場の仲間の先生方や大和市剣道連盟の役員の先生方から励ましや勇気づけのお言葉をいただき、大変ありがたいと思いました。七十八歳で七段に合格させていただき、八十二歳で教士号を頂戴しました。今思い返すと、剣道を続けていて本当に良かったと考えています。
 
現在、剣道のお稽古は、土曜日の午後中心に週一回か、多くて二回です。年々、体力の低下と稽古後の疲労を感じるようになってきましたが、無理をせず、健康には十分注意して、楽しく生涯剣道を続けて、少しでも剣道の理念に近づけるように、努力していきたいと考えています。


この記事に使用させていただいた動画は高陵会の関水先生のビデオライブラリからご提供いただいたものです。心より感謝申し上ます。


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