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人と違う自分たちはもっと楽しんでもいい

私は20歳で性犯罪被害者になりました。

もうその頃より倍以上の年月を生きているので、今さら被害の内容を周囲に訴えかけたり、体験を語ったところで古い情報でしかなかったりしますから、聞かれない限りは内容を語ることもありません。

ただ、被害者になったことでの生きづらさはありました。

こう伝えると、被害の時のフラッシュバックやトラウマに悩まされてたいへんだったんですねと思われがちだけれど、実はそれだけではありませんでした。

むしろ、そっちの方は周囲も気遣ってくれるので、私の場合はありがたいことにそんなに気にすることではなかったですし、それよりも



あんな目にあったのに
友達と遊びに行けるの?

あんな目にあった後なのに
異性の友達はいるんだ?

あんな目に合ったのに
化粧もばっちりで夏は薄着?

あんな目に合ったのに
パートナーをとっかえひっかえしてない?

本当はあんな被害も
望んでいたんじゃないの?
全然傷ついていないんじゃないの?

と囁かれていた20代。





私はただ、他の同級生たちと同じように学生生活を送りたかっただけなのに、そうは見えない世間の声が聞こえても聞こえないふりをして、世間に対しては元気にふるまっていました。

傷ついてるなんて言っても、どうせ信じないだろうから。

確かに、被害後には家に引きこもってしまったり、人と付き合うのが怖くなって心を閉ざす人もいます。


被害者=悲惨な目にあった人
世間の思う被害者は、どこまでも不幸である姿なのでしょう。

もし交通事故にあったとしたら、2度と運転しないのか?
しない人もいるだろうけれど、やっぱり運転したい乗りたい人もいるように、私は恋愛もしたし、知らない人もいる場所に出かけることも止めませんでした。

被害にあってすでに辛いのに、この先辛いままなんて嫌だ、加害者に人生奪われたくなんかないから。

着たい服を着るし、会いたい人に会うし、行きたいところに行く。
私がそれをすることの何がおかしいのか?

30代に入ってから、もしかしたら同じような生きづらさを抱えている人もいるかもしれない。


そう思った私は、被害者だからって世間の思う被害者像を押し付けるなと発信しだしました。

私たちだって人生楽しむし、爆笑するし、幸せに生きられるし!

やはり同じように思っている人たちもいたので、年に数回もと性暴力被害者で幸せな気分で会食するパーティーをしたりしていて、大きなお祭りイベントもしてみたいなんて企画をしたりしてました。

当時は本名で顔出ししているだけで珍しい時代で、それだけで取材などが来ることもあったのも良い思い出です。

そんなことをしているうちにまた目的が大きくなり、犯罪被害者だけでなくて、災害や事故がきっかけで生きづらくなる人もいるだろうし、親は選べないのでそれぞれの生い立ちとか、障がいを持っているとか、そんなところから意識が離せなくなりました。


もと性暴力被害者としての活動でも多くの人に喜んでもらえたり、出会ってから生き方が変わった人たちも見てきたりしたけれど

「私たちだけで楽しんでるのはなんか嫌だ」

このエリアの人にしか私は自分のできる事を提供しませんって、そんな自分が納得できなくなってきたのでした。

ひとことに生きづらさなんて抽象的過ぎて、ふんわりとしか伝わらない。
多くの人に伝える戦略(ってのがもう気持ち的に受け付けない)としてなら、被害者としての活動でもっと大きくなってた方が良かったと言われればそうなのですが、自分の心がそれを許可しませんでした。


大きく傷ついたり世間の当たり前と外れるようなことがあったとしても、自分の生が終わるまで楽しんでいけること。



信じていた人から傷を負って
許せない日もある。

他人の些細な一言に
傷ついてしまうこともある。

離れたい人と離れられない自分を
責めることもある。

思い出したくない悪夢を見て
辛い時の感覚が戻されることもある。

圧倒的多数の人の感覚と違うことで
嫌な思いをしていることもある。



そんな日だってたくさんありました。
人はひとりで生きていませんし、本当の自由な多様性というのは、自分と違う考えをする人も受け入れることでもあります。

考えが違うことで悲しい気持ちになることは、これからもまたあるでしょう。

そんな時でも、どうせこれからまだ生きていかなきゃいけないんだから、どうにかこうにか楽しめることを見つけていくしかないのです。

そんな場所をこれから作りたいです。


生きづらかったけど、自分らしく幸せに過ごせることを祝えるような場所。
悲しい事や辛い事があっても、希望が持てるような場所を。

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