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平成うまれ平成育ち、令和を生きる島国のギャルが、何もあきらめないでいるために


島国のギャルとは、インフルエンサーのkemioが数年前によく使っていた言葉である。

男でも女でもなく、日本で育った今を生きるわたしたち、という意味合いで使われ、彼のジェンダー意識や平成の世に生まれ育った中で育まれてきた価値観をこれ以上ないカジュアルさで表現している。大好きな言葉だ。


ゴリゴリの高齢化社会の中で、島国のギャルの人口比率は少ない。私やkemioのように平成に生まれ育っていなくても、マインドは島国のギャルです☆という人生の先輩方を含めたとしても、やはり少数派だろう。


先日、とある展示スペースに現代アートの展覧会を見に行った。

私はシングルマザー。親元も遠く、保育園の他に無料の子どもの預け先は無い。

私は美術が好きだ。特に現代アートが好き。自分が幸せになるには、美術館やギャラリーという、一般的に静かにしないといけない場に、5歳の息子を連れて行かないといけない。


その展示は、全く子ども向けではない作品で構成されていた。全ての作品が素晴らしく、私は出展作家の一人が出版している本をネットで注文したほどだ。ジェンダー観や家族観について掘り下げた作品もあり、家庭内不和を経験した事のある私にとって、心の支えになるいくつかの発見もあった。


が、しかし、当たり前だけど、5歳の子どもには全く面白くない。親の用事についていっただけだ。奴はうろつく。ヘラヘラする。展示のキュレーターの方は、そんな落ち着きのない5歳児に寛容で居てくれたけれど、主催者の方にとってはヒヤヒヤものだったようだ。「気が気じゃないわ。子どもに動くなと言っても動くしね、お母さんは子どもが小さいうちはゆっくり見られないわよ。」と、苦笑いされてしまった。


この日に限ってぬり絵もタブレットも折り紙も持っていなかった私が悪い、会場に入る前に「静かにね。壊れやすいものがあるからゆっくり歩こうね。」と、声をかけていなかった私が悪い。色々やり方はあったと反省しているし、マナーを教える事が下手な私が悪い。

だけど、「子どもが小さいうちはゆっくり見られない」は、違う。少なくとも、主催者の方が言うべきではない。 


どうしても作品が見たくて、その日しか行けなくて、どの日であろうと子連れでしか行けなくて、子どもが楽しくない事もわかっていて、どうにかなりますように…と、祈りながら長距離を運転して来た。主観的にみても客観的にみても私が迷惑をかけた事は承知だし、この言葉を言った人に悪意は無い。その人にとっては作品が何よりも大切だからだ。

だけど、どうしても、気にしないようにしてもクヨクヨしてしまう私がいる。子連れは黙ってジブリ展に行けという事だろう。コアな美術関係者の大人が見る事が前提の場所に、私たちは招かれざる客だった。


けれども、本当に私は招かれざる客だったのかは疑問だ。だって私は作品を見に来た。展覧会は見に来る人がいないと成立しない。見たい人という意味では招かれた客だが、プラスアルファ小さい子どもがくっついただけで、私は招かれざる客となる。そういう事は、よくある。


誰よりも仕事ができて、熱意もあり、勉強熱心だった人(男女問わず)が、結婚妊娠出産育児を期に以前ほどバリバリ動けないという場合、仕事はそこそこではあるが結婚妊娠出産育児がそれほど仕事をする上でハードルとならなかった人(男女問わず)と比べてしまったり比べられたりして、些細な事で不甲斐なさを感じるということはある。そんな時に、「子どもが小さい時はしょうがないよ。」と、周りから言われたり自分で自分を納得させたりする。

スーパーでダダをこね、暴れる子どもを鬼の形相で抱きかかえている時、「お母さんは(←ここ大事)大変だあ〜」と、半ば茶化すように周囲に言われた経験も、ある。


子どもがいるという、ただそれだけの事を、しょうがなかったり大変だったり我慢だったり犠牲だったりに繋げてしまう、このよくわからない感覚はなんだろう。大変ならば、我慢すれば、思うように動けなければ、それは社会から求められるよりよい親なのだろうか。なんの疑問も持たずにスルーされるべき事なのだろうか。

違うっしょ。そんなのギャルではない。ただの島国(※閉鎖的という意)だ。


ギャルは自分のために可愛くなり、自分のためにオシャレをして、自分のために遊ぶ生きものだ。一重が嫌ならアイプチをして、短い髪に飽きたら伸びるのを待たずに即エクステをつけ、黒ギャルになりたければ焼きにいく。遊ぶお金がないなら、つべこべ言わずに稼ぐ。ギャルはあきらめない。我慢をしない。あきらめないための大変さや努力は惜しまないけれど、それは犠牲にはならない。自分の人生を生きるために必要な事だからだ。


私は美術作品を見にいく。平成生まれ平成育ち、愉快な奴は大体友だち。島国を生き抜くギャルとして、自分の幸せをあきらめずに子育てをする。

そして、あきらめずに勝ち取った全ての経験は子どもにとってもプラスになると信じている。

子どもがさほど興味がない場所でどう振る舞うべきか学ぶためには、幼い頃からの積み重ねた経験が必要だと思う。さほど興味がない場所でどのように自分なりの楽しみを見つけるのか、という事も。親が子ども向けの場所ばかり与えてしまっては、そうでない場所に連れて行かれた場合の対処法がわからない。そこに子ども自身の興味や楽しみがないならそれはそれで良い。そういう場所での迷惑ではない時間の潰し方を、ちびっ子なりに知っていてほしい。


親にとっても、どのように声をかければ周りに不快感を感じさせずに子どもと過ごせるかなんて、経験を積んで学んでいくしかない。お願いです。一回で上手くいかないかもしれない、迷惑はかけるかもしれないけれど、経験を積ませてくださいな。お母さんは来るべき場所じゃないなんて、やんわり言わねえでくだせえ。


当たり前だけど、作品や展示自体を子どもに寄せる必要はない。作品や展示の純粋性は何があっても保つべきだ。ただ、主催者側が招かれざる客を設定するならば、その招かれざる客が来た場合、どのように接したらお互いに気持ちよくいられるか、その場に関わる全ての人が学び続ける必要がある。そもそも、招かれざる客とは何なのか、そんな者は存在するのか、その段階から思考を重ねていただきたい。島国のギャルよりも少数派の、芸術に関わる全ての人にとって、意義のある問いだと思う。関係者しか来ないとか、閉鎖的なのは、良くないよ…。


芸術は全ての人のためにある。鑑賞出来ない人などいない。

そしてどんな人でもギャルになれる。自分の人生のランウェイを歩いていける。男だろうと女だろうと、何歳であろうとも、島国のギャルへの道は開けている。自分のために、幸せになろうぜ。









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