『星雲仮面マシンマン』考~生活の善悪論としてのヒーローもの~

0.宇宙から来た大学生ヒーロー

今からちょうど40年前、ひとりのヒーローがいた。

彼は宇宙からやってきた大学生。卒論をまとめる為の調査に訪れた地球で、彼はある女性に一目惚れする。時を同じくして、悪の天才科学者が子どもたちを苦しめるために、自らの技術で怪事件を引き起こし始めた。事件に必ず首を突っ込む女性を守るため、宇宙から来た大学生はヒーローとなって立ち向かう…

その大学生の名はニック/高瀬健、そしてそのヒーローこそ、星雲仮面マシンマンである。


1.『マシンマン』よ今日こんにち

これが『星雲仮面マシンマン』(1984)のあらすじである。

『星雲仮面マシンマン』の毎回の物語は、基本的に科学者・プロフェッサーKが手下のアンドロイドに悪事を命じ、巻き込まれた子どもたちを高瀬健/マシンマンが救って解決、と展開していく。中盤からは傷心のプロフェッサーKに代わって姪のレディーMが登場し、敵も犯罪者たちに変わる。しかし基本的なプロットは作品を通じてほとんど変化しない。

そのため、形式だけを見れば『マシンマン』はいわゆる勧善懲悪の、旧来のヒーローものの作品の一つ、と言うこともできる。無論、ドラマや映画について考えるうえで、その物語の形式は重要な意味を持つ。『マシンマン』も、例えば平成ライダーのように、勧善懲悪の物語形式の枠を壊した作品ではない。

しかしここで言っておきたいのは、勧善懲悪の枠の中にいるからといって、そこに作品のメッセージあるいは意義が集約されるわけではないということだ。
勧善懲悪だから良いor古臭い、と前提するのではなく、そこで語られる善とは何か、悪とは何かを考えることで、その作品の本当の意義が見えてくるのだ。『マシンマン』は、その点においてこそ特筆すべき作品なのだ。

そして『マシンマン』の意義は現代的に見ても損なわれるどころか、むしろ今だからこそ重要性を増している。今回は『マシンマン』40周年の節目に、今だからこそ『マシンマン』について検討し、その今日性を明らかにしていく。この記事が、少しでも『星雲仮面マシンマン』という作品について、あるいは「ヒーローもの」について考える契機になれば幸いである。

2.生活者たちの戦い

『星雲仮面マシンマン』を語るにあたって、まずは何と言っても主人公の高瀬健/星雲仮面マシンマンだ。彼はアイビー星から来た大学生で、地球には卒論の調査のために訪れた。そして彼は、たまたま遭遇した写真週刊誌のカメラマン・葉山真紀に一目惚れする。真紀はスクープ目当てに事あるごとに怪事件に首を突っ込もうとするため、健は彼女を守るために地球での長期滞在を決める。

そう、彼は地球を守る使命を帯びているのでも、正義や大義に燃える熱血漢でもない。自分が惚れた女性の存在が、彼の地球滞在の理由の一つなのだ。彼女や周囲の子どもたちをテンタクルの魔の手から守ることが、彼の戦う理由なのである。

一方のテンタクル、そのドン・プロフェッサーKの行動原理も、並大抵のものではない。プロフェッサーKは子ども嫌いで、子どもアレルギー体質でもある。その為、彼は手下のアンドロイドたちに子どもを苦しめ、痛めつけるための作戦を展開させる。場合によっては金で雇った悪人を用いることもあるが、作戦の趣旨は変わらない。
第1話、腹心の鉄人モンスに「テンタクルの科学力を以てすれば、世界の軍隊を敵に回しても決して引けを取らない」と、その目的の小ささに苦言を呈されたプロフェッサーKは、こう返す。

ワシの敵は世界の軍隊ではない。世界の子どもたちなのだ。

『星雲仮面マシンマン』第1話「教科書まっ白事件」(監督:小笠原猛、脚本:上原正三)より

そう、プロフェッサーKは、強力なアンドロイドやその他の脅威的な科学力を有していながら、それを破壊や征服の為に振るうことに微塵も興味がないのだ。彼はあくまで、子どもたちが苦しみ、悲しみ、涙を流す様を見たいだけなのである。故に子どもたちにすら、暴力を振るうことを目的とした作戦を行うことはない。子どもたちが悲しみ、涙を流す姿を基地のモニターで眺め、悦に入るだけだ。鉄人モンスが敗れ、傷心のプロフェッサーKに代わって日本にやってきた彼の姪・レディーMも、子どもアレルギーであることや基本的なスタンスに変わりはない。

つまり『星雲仮面マシンマン』は、善側も悪側も、個人的な――言い換えれば、自分の見聞きできる範囲のことを動機として戦っているのだ。自分の見聞きできる範囲で、自分が大切にしたいものを守るために、あるいは自分が悦に入るために、彼らは戦っている。

一見、それはごく小さな戦いに見えるかもしれない。1984年という時代を考えれば、SFやそれに類するアニメ・特撮の世界では宇宙規模のスケールを持つ作品は既に数多く作られていた頃である。例えば同年で、かつ同じ東映製作の『宇宙刑事シャイダー』では、宇宙刑事シリーズの集大成として宇宙規模の激闘が繰り広げられていた。また『超電子バイオマン』でも、ハードなテーマを内包した連続ドラマ性が意識されていた。

そうした流れの中で見れば、『マシンマン』は一風変わった作品かもしれない。しかし『マシンマン』を考えるうえで本当に大事なのは、その「小ささ」が描き出した、私たち人間の一側面――特に生活者としての――と、そこに対する希望を込めたメッセージなのだ。そしてそれは、『マシンマン』は全ての登場人物が「生活者」として生きていること、そしてそこを悪が付け狙うからこそ、描き得たものなのである。

3.生活する者たちのために

ここからは、具体的なエピソードをいくつか紹介しておこう。

まずは第4話「魔法の石焼きイモ」だ。

プロフェッサーKは、体に入るとクシャミが止まらなくなるエキスを開発し、それを石焼きイモに注入する。この石焼きイモを食べると、自分の食べたイモを他の誰かに食べさせない限りクシャミが止まらず、最後には死んでしまうのだ。Kはアンドロイド・オノ男を通じて、仕事がなく困っている男にこの石焼きイモの屋台を与える。そして「子どもにはタダで焼きイモをあげる」と条件をつけた。
Kの思惑通り、子どもたちの間で石焼きイモが出回り始めた。ヒロインの真紀の弟・勝も友達に騙されて焼きイモを食べてしまう。それを見た真紀や健は調査を開始し、それを見た男は自分が騙されていたことに気づく。正体を現し、男を口封じしようとしたオノ男をマシンマンが退治し、事件は解決する。

このエピソードの白眉は、自分が助かりたいがために魔法の石焼きイモを他人に食べさせようとする者たちの姿だ。何も知らない友人を騙し、焼きイモを食べさせることで自分は生き残る。こうした知恵を、大の大人が見せるならまだしも、小学生同士がやってのけるのだ。純粋なだけではない、生活者としての狡賢さが垣間見える。我が身に置き換えて考えたときに、自分は果たしてそうしないでいられるだろうかと、身につまされる一幕だ。
しかし一方で、そうした事態にも動じず、進んで苦難を引き受ける者もいる。真紀は勝から事情を聞き、「弟のあなたを死なせるもんですか」と勝の焼きイモを食べる。弟を思う人情が、極めて自然な形で現れている。
そして焼きイモを売っていた男も、当初健に指摘された際は怒っていたが(彼からしてみれば、やっと見つけた仕事にケチをつけられたのだから当然だ)、真実に気づくとオノ男を激しく糾弾する。生活に苦しむ者でも、土壇場で正義感を曲げる男ではなかったのだ。

こうした生活者としての人々のリアルな姿と、そんな人々が土壇場で取る行動こそ、『マシンマン』のメッセージの核心を成すものだ。日々の生活の中で、いざという時に自分もこうありたいと、そう思える人々を『マシンマン』は描いている。

あるいは第6話「 私・ママの子供?」も、特筆すべき回だ。

プロフェッサーKは、散歩中に出会った少女・美佐と母親の仲良さそうな光景にいら立ち、彼女たちの絆を断つ作戦を行う。美佐のニセの両親を金で雇い、あらゆる技術で彼女に両親が本物ではないと信じ込ませる。一度はニセの両親のもとへ行くがやはり帰りたいと言い出した美佐を、ニセの両親は事故に見せかけて始末しようとする。しかし計画に気づいた健=マシンマンに阻止され、カタルシスウェーブで改心する。

Kにとって、美佐は通りすがりに出会った少女であり、それ以上でも以下でもない。しかし美佐が幸せそうなのが気に食わなかったと、ただそれだけの理由で、彼はあらゆる技術で美佐に揺さぶりをかける。Kの作戦の中でもトップクラスの動機の小ささだが、巧妙な揺さぶりのかけ方は、我が身に置き換えると恐ろしいものだ。

そしてこの回では、敵怪人は幹部の鉄人モンスしか登場せず、戦闘シーンも中盤にマシンマンが彼と戦い、逃すだけだ。クライマックスでは、車で逃げようとするニセの両親をマシンマンが追い詰め、鉄パイプなどで抵抗する両親の攻撃をマシンマンが超パワーで受け止める。まるでヒーローもののフォーマットを逆転させるかのような展開だ。
そしてマシンマンは、カタルシスウェーブという光線でニセの両親を改心させる。倒してしまうのでも、無理に牢に閉じ込めるのでもなく、彼らの悪を叩き、正しき道を示すのがマシンマンというヒーローなのだ。

第8話「野球少年の秘密」も、子どもの心を巧妙に利用し、弄ぶ非道な作戦と、マシンマンの活躍が胸に迫る回だ。

宇宙からの塵を研究する滝口博士を、テンタクルのバット男が脅迫する。彼はテンタクルから援助を受けていたのだ。脅迫に応じない滝口博士に対し、プロフェッサーKは彼の息子・秀明を利用することを思いつく。
秀明は野球が下手で、勝たちからも馬鹿にされていた。バット男は彼に、金属を弾く特殊な液体をしみこませた特殊なグローブを与える。これによって絶対に打てないボールを投げる天才ピッチャーとなった彼は、たちまちリトルリーグの注目選手となる。
大事な試合の日、見守る滝口博士にバット男はタネを明かし、秘密を世間にバラすと脅迫する。父は宇宙からの塵を取りに去るが、その裏で登板した秀明の球は次々に打たれてしまう。マシンマンが特殊な液体を水とすり替えていたのだ。マシンマンは秀明にカタルシスウェーブを浴びせ、自分の力で投げ切るように諭す。秀明はその言葉に従って自分の力で戦い、チームの有利を守り切り、勝利に導いてみせた。
それを知らぬまま取引現場に来た滝口博士に、マシンマンの相棒ロボ・ボールボーイが息子の勝利を伝えて静止する。激高したバット男は駆け付けたマシンマンが倒した。滝口博士は、マシンマンが息子を救ってくれたことを悟ると、彼に自分もテンタクルと手を切ることを誓う。
後日、本格的にスポーツに打ち込むために、ジョギングを始める秀明の姿があった。

この話は、珍しくプロフェッサーKが子どもをいじめる以外の目的で動いた回である。しかし彼は巧妙に、野球が下手な子どもの心の隙を突いてみせる。グローブの力で持て囃された秀明少年はすっかり有頂天になり、エースピッチャーすら目指すまで増長する。そしてその絶頂から一気に叩き落すことをネタに、父親を脅迫するのだ。
一方の父親も、おそらくテンタクルが清い組織でないことを知りながら、自分の研究資金のために彼らの援助を受けていた。そして自分でなく、子どものコンプレックスにつけ込まれた彼は、テンタクルの脅迫に応じそうになる。
ここでは父と子、2人の生活者としての姿が巧みに交差しながら描かれている。父は自分の出世のために、息子はコンプレックスを克服して周囲に持て囃されるために、それぞれ悪魔に魂を売ってしまう。

だからこそ、マシンマンはただテンタクルと戦うだけでなく、その前に秀明を止め、諭したのだ。秀明のしていた真似は卑怯であること、自分の力で戦うことをマシンマンは諭す。少年の心もまた、マシンマンにとって大切なものだからだ。秀明は、マシンマンの言葉に従って自分の力で戦い、そして勝ってみせたのだ。
それを知った滝口博士も、マシンマンや、そして息子の姿に人として大切なものを思いだしたからこそ、自らの過ちを清算する覚悟を決めたに違いない。

そして第28話「好き!好き!真紀」では、マシンマン=高瀬健が一人の人間としての誇りを全うするために戦う。

レディーMの右腕・トンチンカンが特殊な薬・ラブマシーンを飲んだことで真紀に恋をしてしまった。トンチンカンはアンドロイド・カメレオン男と破門された力士を利用し、健が交通事故で亡くなったように見せかける。そのまま誘拐した真紀にトンチンカンは結婚を迫るが、真紀は応じない。しかし勝が痛めつけられる姿を見て、真紀は泣く泣く結婚に応じてしまう。
カメレオン男は亀太を通じてマシンマンを誘い出し、真紀に化けてマシンマンを倒そうとするが失敗。勝を通じて事のあらましを知ったマシンマンは、一人の男・高瀬健として真紀の救出に向かう。
結婚式場に突入した健は、変身せずにトンチンカンと戦い、苦戦しながらもなんとかトンチンカンを退けて真紀を救出するのだった。

惚れた女性を取り合う、と書くと陳腐な話に見えてしまうかもしれないが、この話の重点は惚れた女性に卑劣で強引な手段も厭わないトンチンカンと、それに真っ直ぐに、自分の力で立ち向かう高瀬健の対比である。
健はマシンマンなのだから、敵の幹部と戦うならばマシンマンの姿でも良いはずだ(事実、終盤でマシンマンの姿でトンチンカンと戦い、カタルシスウェーブで下している)。マシンマンに変身しない理由を問うボールボーイに、健はこう答える。

「僕は真紀さんが好きだ。だから男として、高瀬健として、自分の力で真紀さんを助け出したいんだ」

『星雲仮面マシンマン』第28話「好き!好き!真紀」(監督:小笠原猛、脚本:杉村のぼる)より

愛する人が卑劣な手で苦しめられているとき、人はどうするべきなのか。その問いに、健は自分の力で、正々堂々立ち向かうのだと、迷うことなく断言してみせる。マシンマンというヒーローであることすら自らに封じ、自分の力で助け出してみせることこそ、人としての誇りであると、彼は自らの姿を以て語っているのだ。

このエピソードは第6話と同じく、クライマックスがマシンマンと怪人の戦闘シーンではない。前述した健とトンチンカンの一騎打ちだ。しかしそこにこそ、このエピソードの、ひいては『星雲仮面マシンマン』の核心が込められている。
特殊な力がなかろうと、大切な人のために戦うとき、あるいは自分の誇りのために正々堂々と戦うとき、人はヒーローになる。より正確に言えば、そのとき当人に自覚はなくとも(第28話の健も、マシンマンという「ヒーロー」であることを封じて戦ったように)、それを見ている者たちからはヒーローに見えるのだ。
「正義」や「社会」といった、大きなものを背負わずとも、マシンマンは立派なヒーローだった。そしてその意義は、現代でこそ問うべきものなのである。

4.いま生きている者たちへ

『星雲仮面マシンマン』が放送されてから、40年の時が経った。その間、社会は大きく変化し、それに伴ってヒーローものも大きく変化したことは、この記事を読んでいる読者諸賢には説明不要だろう。

具体的に言えば、社会全体に大きく共有されていた(そして、多くのヒーローものがそこに立脚していた)「正義」や「悪」といった価値観が力を失い、個々が様々な価値観を持って生きていくようになった。それは互いが互いに自由な社会とも、反対に互いに無関心な、あるいは衝突することを前提とした社会とも見ることができるだろう。そのどちらの見方が正しいというつもりはない。
またヒーローもので言えば、平成ライダーシリーズのように、勧善懲悪の構造を打ち壊した作品が製作され、大きなトレンドとなった。そしてそれを社会の変化と結びつける論も数多く存在する。

では、「正義」や「悪」が力を失ったとして、それに類するものすべてを、私たちは捨て去ってしまったのだろうか。そうではないはずだ。誰かの優しさに胸が温まり、誰かの勇気を称賛し、そして憧れる心が、一人ひとりの中には残っているのではないか。
そんな中で私たちが成すべきは、社会がどうこうと論じることだけ●●ではないはずだ。無論、それが重要な領域はある。例えば政治への無関心が深刻な問題であることは、私だって重々理解している。しかし同時に、そんな社会の中で、一人ひとりがどう生きていくかを考えることもまた、大切なことではないだろうか。

ことヒーローものについては、「正義」や「悪」という構造そのものが注目されることもあり、現実社会の「正義」(とされるもの)や「悪」(とされるもの)と結びつけられることも、それが現代社会においては成り立ちにくいとする論もある。
そんな現代だからこそ、勧善懲悪のフォーマットの中で、個人の生活のレベルで「正義」や「悪」を描き続けた作品として、『星雲仮面マシンマン』は注目すべき作品だと、私は思うのだ。

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