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「嫌い」の主張による副産物

幼い頃は人や食べ物、何かしらに対して「嫌う」事を悪だと考えていたのだが、現在はこの価値観が変化してきた。

今までとは反対に、嫌いなものを「きらい」と認識することは重要なのでは?と思うようになったのだ。

小学生の頃は人を嫌うことを悪だと考えていて、出会う子全員と仲よくしようとしてたし、人や物事に対して悪口を言わないようにして、無条件に全肯定するようにしていた。そうすればみんなハッピーになれると考えていた。

当時の僕は友達が誰かの悪口を言う時の気持ちとか理解することができなかった。否定せずに全員が全員を肯定して受け入れれば平和に終わるのに、なんで?って。

他に例を出すと、テレビに映っているタレントを母が「かわいい」と褒めたとき、姉は「でも鼻が変じゃない?」と返答するということがあった。
これは母と姉、会話の役割が逆転することもよくあった。

この話を隣で聞いていた僕は
「いや、そこは可愛いっていっとけよ!テレビに出る以上少なくともかわいいんだからわざわざ粗探しすな」

と聞いてて勝手にイライラしてたんだけど、今思えばコレって重要なんじゃないかなと。勿論「嫌い」をわざわざ人に話すことはよくないし、なるべく口に出さない方が良いに決まっているのだが。

僕がなぜ「嫌い」を認識することが重要と思ったのか、それは僕が今まで出会ってきた友達のなかで、「嫌い」を主張する人達は何かしらの能力に長けている子が多かったのだ。

部活、勉強、服装センス、口喧嘩、人間関係の立ち回り…

なぜこの現象が起きるのか考えてみたとき一つの気づきがあった。

「嫌い」を主張できる人は分析能力が高いのかなと。

嫌いを主張する人間は2種類いて、根拠のある人と無い人。

根拠の無く嫌うやつは論外で、「嫌い」の根拠を持つ人達は分析力が高い傾向にあると僕は考えた。

人はポジティブよりも、ネガティブを探すときの方が具体的になる。

例えば、あなたはなんでお肉が好きなの?と聞かれたとすると僕はこう答える。
「食べ応えがあって美味しいから!」

次は逆に、あなたはなんでピーマンが嫌いなの?と聞かれたとするとこう答える。
「味が苦いし美味しく無いから、あとピーマンのなかに入ってる種とか集合体になってて気持ち悪く無い?しかも匂いも青臭いし満腹感、食べ応え無いし最悪だよ!」

みたいな。

好きなことも時間をかけて好きな理由を深めれば沢山要素が出てくるんだろうけど、瞬発的に量出るのはネガティブな方だろう。

「嫌い」を主張できるヤツは「嫌い」をみつける事ができ、そして言語化することができるのだ。
何に不快感を感じるのか、その洞察力を持っていて、幼い頃からそれを言語化する習慣を持っている。

「何に嫌いを感じているのか」を言語化する習慣があって分析力が磨かれていく。

そしてこの人たちは自分への分析力も高いのだ。

故に問題解決力も高いので、部活や勉強、両方またはどちらかで成績も残している子が多かった。

勿論、人を傷つけることは良くないし、「嫌い」を言うことを肯定はしない。

僕が思ったのは、なぜ「嫌い」を言う人達は何かしらで結果を残しているのか、共通しているのか気になったので考えてみたかったのだ。

今回考えてみて思ったこと。

「嫌い」というネガティブを発信することは一般的には悪いこととされている。

しかし視点を変えて考えてみると、「嫌い」を主張してきた人達は思考停止せず目の前の問題と向き合って考えてきた人達。

「嫌い」を主張しない選択を人達はネガティブから目を逸らした思考停止した現実逃避者という見方もできるということ。

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