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あまり読まない人が古典だけを読むのは最高に面白くて効率がいいと思う理由を長々と解説する

私はわりと本を読む人で、たまには読んだことをまとめたりしている。

そういう人ではあるけれど、日常生活を送る上で実用的かつ頻繁に活用している考え方は100冊分くらいかなと思う。

それは習得した資格などではなく、もっと抽象的なもので、個別の事例に対処するというよりは、もう少し普遍的でだいたいの場所で使うことができる。例えば「技術は知識で生れるものだから、これをするためにあれを学んでおこう」だとか、「これはなにも生み出さないものだけど、美しいから知っておこう」だとか、そういった感じである。

ものすごく役立つというわけではないけれど、仕事や日常生活のそこかしこで、そういった考え方を使っていて、広くて長い目で見ると正しい決断をするために活用できていると思う。

私が多用している情報、あるいは考え方のほとんどは古典から学んだものだ。もちろん他ジャンルの考え方も使ってはいるが、割合としては3割くらいだろうか、とにかく大昔に古典を乱読しておいて良かったとは思っている。

そんなわけで古典を読もうって話なんだけど、そういう考え方はわりとありふれていて、私が書くものも似たり寄ったりの内容かもしれない。ただ少し違うかなと思うところは、かって私は古典を読みそうな人ではなかったという点だ。

私は本に囲まれて育ってもいないし、周囲に読書する人がいたわけでもない。古典を読み始めたのも、中学生くらいの頃にコストパフォーマンスが最も高いと気付いたからにすぎないし、読み方も完全に我流である。どの程度まで理解していたか、今となってはよく分からない。

だから自信を持って、みんなも古典を乱読すべきだと主張することはできない。ただしあまり読書をしない人こそ、むしろ読むのは古典と決めちゃったほうがいいんじゃないのかなとは思う。

ここに書かれているのは、どっちらかていえば行儀の悪いやり方で、きちんとした読書する人にとってはハァ? って感じなのかもしれないが、とにかくなぜそう思うのかを解説したのが以下に続く文章で、だいたい15000文字くらいある。お暇な時にでも読んでみてください。

読まない人の世界

子供の頃、私の家には本がなかった。厳密にいうと父親が入社祝いかなにかでもらった国語辞典があったけど、そういう感じの家だった。十歳くらいの頃にたまたま本を読み始めたものの、初めて本屋へ行った時にはかなり困惑した。なにを選んでいいのか分からないといった状況に陥ってしまったのである。

図書館であれば本の選択に失敗してもデメリットはほとんどない。面白くないだけだ。しかし本屋でつまらない本を買ってしまうと、お金が無駄になってしまう。

迷った挙句に、なぜか私は阿刀田高の文庫本を手に取った。多分だけど名前が格好良いとか、文庫は小さくて安い上に大人の本っぽいとか、そんな理由で選んだんだと思う。内容はブラックユーモア的なもので、子供にとってはあまり面白くはなかった。

今の私は読む本に迷うことはないけど、本のない家で本を読まずにすごしてきた人は、そういう世界に生きているんだと思う。

その一方で、書籍が大量にある家に生まれる人がいて、彼らの多くは自然に本を読む人になる。彼らが初めて本屋にいったとしても、それ程まで困惑しなくても済むはずだ。自宅に本があるのだから、しばらくは本屋に行く必要すらないかもしれない。おまけに家にある本は、すでに選択されている。だから効率よく良いものが読めてしまう。

自宅の本棚に並んでいる書籍が良くないものであったとしても、すでに良くない選択には到達している。まずはたいして良くもない書籍を読んでみて、徐々に自分の選択を獲得していけばいい。

さらに自宅に本が並んでいるだけで、それなりの知識を得ることができる。大量の書籍があるということは、周囲に本を読むそこそこ知的レベルの高い人がいることを意味している。その人々を経由して、雰囲気のようなものが自然に身につく。そういったものを活用して生きてる人もいるので、それなりに便利な特典だといえよう。

私と同じように本がない家に生れなかった人は、自分で選んで読んでいくしかない。ところがずっと読んでいない人が、いきなり読もうとするとなかなか難しい。間違えてしまうと、陰謀論に凝り固まったり、延々と自己啓発をし続けてしまうこともある。結局のところ文化資本のない家の人は不利ってことなんだろう。

ただ最近になり、文化資本が豊かな人生を送った人は、文化資本に乏しい状態を経験することはできないといったことを考えるようになってきた。乏しい状態なんて体験したくないって話ではあるが、今から私は本を10冊くらいしか読んだことのない大人になることができないのもまた事実である。10冊くらいしか読んだことのない大人であったとしたら、今の私とは考え方や行動が全く別であるはずだ。そういう人として生きるとすれば、それはそれで面白いような気がしないでもない。

さらに読んでない状態で40歳を越え、急に読み始めるという経験も、読んでない人にしか味わえない。小学生に比べれば経験値はずっとあり、情報収集能力も向上しているはずだから、読書の方法を戦略的に組立てることも可能であろう。それはそれで、ものすごく面白い時間ではないだろうか?

私にはそういった経験はできないが、想像してみることはできる。そんなわけで、もしも私が読んでいない人で、なにかのきっかけで読もうと思ったとしたら、どうすれば一番効率が良いのか少し考えてみた。

最低限だけ読むとすれば

もしも私が10冊くらいしか読んだことのない大人であったとして、今から本を読もうと思ったとしたら二つの選択肢がある。

・ 読んでない人としての特性を活かしつつ大量の本を読む
・ 読んでない人としての特性を活かすため最低限の本を読む

前者を選択するとしたら、次のようなことをすると効率が良い。

後者を選ぶとして、最適な行動はどうなのかっていうと、一番効率が良いのは古典を読むことだと思う。

ここで古典としているのは、古文ではない。次のような書物のことである。

・ 昔に書かれた書物
・ いつの世でも読まれるべき書物
・ 価値や品質の高い書物

純粋理性批判も古典だし、エミールも古典、ニコマコス倫理学も古典、光文社古典新訳文庫や岩波文庫で扱われているような本とすると分かりやすいかもしれない。

古典を読むのは敷居が高いように感じるかもしれないけれど、実際に読んでみると面白い。ついでに、ものすごく効率がいい。便利でもある。読まない人は古典の100冊も読んでおけばそれでいいと思う。

古典だけを読む合理的な理由としては、現在の環境がかなりのコストと長い時間をかけて作り上げられた良質のものだという事実がある。そういうものがあるのだから、使わない手はない。これについては後に軽く解説するが、とりあえずコストパフォーマンスがいいのかーっと思っておけばそれで十分であろう。

さらにちょっと危うい理由としては、あまり読まない人間が、古典だけを読んだ状態になると、どういう人格になるのか謎だというものがある。

たまにどういう順番で学習したのか、全く分からないなというような不思議な人がいる。そういう人は一定の魅力があって、たまには驚くようなアイデアを出してくれたりする。ずっと読んでない人が、いきなり古典だけ読めば、そういう人になれる可能性があるんじゃないかと、私なんかは思ってしまうわけである。

実際のところどうなるかは分からないが、とにかく読んでない人が普通は選ぶであろう本ではなくて、選ぶ可能性が低い本を読んだほうが、希少価値がある人格になる可能性は高い。そういう人間になってみるのは、なかなか面白そうだ。

ちなみに100冊っていうのはキリが良いから出した数字で、べつに1000冊でも50冊でもかまわない。自分が丁度良いなと思うくらに読めばいい。

続いてなぜに古典は効率が良いのか、その理由について解説しておこう。

古典はとても効率が良い

本を読む際には選択する必要があるのだが、これがなかなか難しい。全ての本が良いとは限らないからである。

ところが古典は適当に手に取ったものを、順番に読むだけでいい。なぜなら価値や品質が高いと分かっているからだ。

古典は昔の人たちが大量の雑本の中から、これは最高だと選び取り、時代を経てさらに様々な人に選別された結果、今も読まれている作品である。だから古典を読む限りは、選ぶ必要がないし、読んで損することもない。

近年に書かれた書籍でも、翻訳書はハズレが少ない。翻訳する価値があると誰かが思わなければ翻訳されないわけで、その時点でひとつの関門を突破している。

ちなみに現在の私は、古典でもなんでもない、明治に書かれた雑本を中心に読んでいる。その中で現代人にとって有益かつ面白く、読む価値のある本を選ぶとすれば1000冊に1冊程度しかない。これなら古典としてもいいだろうと思った作品は、これまでに1冊のみ、しかも条件付きなら……といったものだ。隠れた名作なんてものはほとんどないのだなと身をもって理解している。だからこそ古典を読むのは効率が良いと、強く実感しているわけだ。

多読する人はハズレだろうとなんだろうと読みまくればいい。しかし人生で100冊、あるいは50冊しか読まないのであれば、古典を選ぶのが効率がいい。

私も本を書いたりしているので、書きにくいことではあるのだけれど、本をほどんど読まない人が書店、あるいはアマゾンで読みたいなと思い買いがちな本、あるいはそういう人が読みたくなるように作られている本のほとんどは、今すぐ役立つ本かもしれないけれど、数年先にはあまり意味がなくなっているような内容だ。あまり読まないのであれば、そういう本に時間を費すよりも、50年先にも確実に価値がある古典を選んでおいたほうがいい。

次は古典を読むと、どうなるのかというお話である。

古典は基準になる

まれに社会人となり大量に読書をするようになった人が、書評ブログを書いていたりする。そんなブログがビジネス書を中心に扱っていると、ビジネス書を1000冊読むのではなく、先に古典を100冊読んじゃえばいいのにな……なんてことを思ってしまう。

古典は基本的には価値があり、良いものである。そういったものを読んでいくうちに、一定の基準のようなものが形成されていく。良いか悪いかを判断するためには基準が必要で、古典というのは基準の拠り所として最適なものだと思う。古典を一通り読んだ人と、そうじゃない人の実用読書ブログは絶対に違うものになる。目的にもよるが、基本的には読んでる人のブログのほうが優れたものになるはずだ。

とはいえ、書評ブログなんてものを書いている人のほうが少ないわけだが、普通の人にとっても古典で基準を作る意味はある。自分の価値観や判断基準とは別の、もうひとつの基準のようなものを得ることができるからだ。

もうひとつの基準があれば、私の好みや考えとしては行為Aを選択したいところであるが、人類普遍の価値のようなものからすると、行為Bをとるべきである……などといったことを考えることができるようになる。巨大な局面においては、自分の好みや考えなどはあまり意味がないんだなと判断できれば、時間と思考が節約できる。

もっと小さい範囲の話だと、本を選ぶのにあまり迷わなくなる。雑に読んでも世の中にはこういうジャンルがあるのかと分かるので、その中から自分の好みのものを選ぶようにもなれる。古典を100冊くらい読んだずっと後に、俺はなんとなく書店に入り、良さそうな本をさらっと選べるのだという余裕を持って今後の人生を生きていけるはずだ。

そんなことができたからなんなんだって話なのかもしれないが、気分の良い人生を送ることができる可能性は高くなる。

今の一部は古典でできている

古典は古くさいものだと思っている人もいるかもしれないが、かっては最新鋭のものだった。そして例外はあるものの、基本的には書かれた当時、人々を熱狂させたり喜ばせたり怒らせたりしたものである。そんな古典が大量に積み重なり、現在の文化に到るといった感じである。

だから古典を読んでおくと、現代の文化も基本的なところが理解できる。例えばなんだけど、人権が発生したあたりの時代に書かれた人権にまつわる本を読んでみる。今も残っている本なのだから、当時としては人権について書かかれた、もっとも優れた文章だ。文化や概念は時代を経ると様々な要因が加わり、複雑なものになるものではあるけど、そこには生成りの人権が存在している。

勘違いしてはならないのだけれども、古典から得た知識は、現代の問題全てに対処できるような完全なものではない。それでも素朴で純度が高いため、意外に分かりやすいといった側面を持っている。

スチュワートミルの自由論を読んでおけば、現在の自由についてもだいたい理解できるような気分になる。ルソーの社会契約論から、国とはなにかを学ぶことができる(そういう内容だったよね?)。国や法律、自由や人権がどのように作られ、どう使われてきたのかを知っておくと、それらを考えるための部品としても使える。

今日もネットで議論されている問題は、どこかの古典に正解のヒントが書かれているはずで、現代の問題を眺める時、古典で得た知識を合わせて考えてみると、多少は色々と理解することができるかもしれない。もっとも古典で対応できない繊細な部分は沢山ある。さらに深く理解したい場合には、当たり前だが個別に調べる必要は出てくるわけだが、そういう時にも古典で得た知識は参考くらいにはなるはずだ。

なんでもだいたい読めるようになる

大昔に翻訳された古典は、翻訳が微妙なことが多い。難読書とされていた本の原著を読むと、スラスラ読めたといったエピソードをどこかで読んだことがあるんだけど、そういう感じである。翻訳でなくとも、古典の中にはとんでもない悪文がたまにある。

もちろん悪文自体には価値はない。しかし悪文を読むことで、様々な文章を許容できるようになる。流行によって作られる悪文なんてものもあるんだけど、一時的に流行した変な文体を読んでおくと、現代人の変な文章も許せるようになってくる。まして上手い文章は高速で読めるようになっていく。もちろん古い翻訳でも素晴しいものもあり、素晴しい新訳が出ていることもある。だから悪文だけを選んで読む必要はない。それでも、一度くらいはそういう経験をしておいてもいいのかなとは思う。

読書を古典だけで終らせてもいいけれど、次の読書のためのトレーニングとしても使えるというわけで、以上が読まない人にとっての古典を読むメリットである。ついでなので、普通に読書する人にとっての、古典を読む意味についても書いておこう。

古典でものが書かれている

現在まともな本を書いているほとんどの人は、大量に古典を読んでいる。彼らが持っている知識の一部を認識しておくと、書かれたものがよりよく読める。同じ趣味の人とは会話が弾むといった現象があるけれど、それと同じようなもので、同じものを読んでいる人が書いた本は共感できたり理解しやすかったりするといった理屈だ。

本だけでなくアニメや映画で古典は引用され、パロディーが折り込まれている。ガンガン読みまくっていくと、現代の日本の考え方のスタイルは、ここから来ているのかってことが分かることもあるだろう。

そんなことが分かってなんになるのって話になるのかもしれないが、分からないより分かったほうがいいよねって話である。

内容の外側からも学ぶことができる

古典は書かれている内容の他にも、色々学べることがある。

例えば現在の日本の文体は、翻訳文体から強い影響を受けている。だから古くさい翻訳文を読むことで、現在流通している文体の秘密を繙くなんてことができてしまう。もっとも翻訳文体のみについて考えたいのであれば、翻訳された推理小説やハードボイルド小説を読んだほうがいいのだが、これはあくまで例えとしておこう。

その他、ある時代に人気のあった古典を知ることで、この時代にはこういった知識が求められていたのだと理解できる。もっというと、なんでこんなつまらない本が持て囃されていたのかと考えたりするのも楽しい。

このように古典を読むとその内容のみでなく、古典にまつわる事柄からも学ぶことができることもないでもない。

難しいと思われる本を読むコツ

再び、もしも今の私が本を10冊くらいしか読んだことのない人間で、効率良く本を読もうとしているのなら……という設定に話を戻そう。そういう人は、古典が読みにくいと感じてしまうかもしれない。だから難しい本を読むコツを書いておく。

本を大量に読む人の多くは、乱読の時期を持っており、その際に読むのが面倒くさく感じなくなる技術を習得する。ここで紹介するのは、そういう体験を圧縮して済ましてしまうという技法である。前提としてスマホでニュースや雑文くらいは余裕で読めるかな……くらいの読書レベルの人を対象にした手法となっている。

- 雑でいいのでとりあえず読む
- 難しいところは文字を見ておく(理解できなくていい)
- 分からなくていいからとにかく全部のページに目を通しておく(読まなくてもいい)
- 同じ時代、同じ分野、よく似た内容の本を立て続けに読む
- たまに分かる部分が出てくるようになるので理解する
- 別の時代、分野に移って同じことをする
- 100冊くらい繰り返していると自分に必要な部分、興味のあるところは、だいたい分かるようになる
- 気が向いたら分からなかった本を読みなおしてみる

こういうことを続けているうちに、朧げながら内容が理解できるようになる。ポイントは同じような時代の同じ分野、よく似た本を読むことで、関連知識をつけることによって、なんとなく理解できるようになっていく。

これはかなり雑なやり方で、乱読をした後にほとんどの人たちは、まともな読み方を覚えていく。内容をしっかりと理解したいのであれば、それなりのアプローチもある。

ただしそういった正しい読書や学習の方法から、抜け落ちてしまう人たちがいる。そんな人が自分なりに知的な興味を満したり、即席で一定の知識をゲットして活用したいと思った時には、それなりに役立つ方法だと思う。

安価かつ最速で古典を選ぶ方法

本を10冊くらいしか読んだことのない人が、効率が良さそうだし古典を読もうと思ったものの、時間とお金がなかったとする。もしもお金があったとしても、本を読まない人には値段の基準がないため、1冊2000円でもすごく高いと感じてしまうかもしれない。そもそも読書に価値がないと判断したから読んでないわけで、書籍にそれほど投資したいとは思っていないはずだ。

そういう人が最速で安価に正しく古典を手に入れるために、どうすればいいのかと考えると、今なら紙の文庫を古書で大量に購入するのがベストかなと思う。文庫は安くて小さな本というイメージがあると思うのだが、実は学生や収入の少ない人向けに手軽に知識を提供するといった側面も持っている。だから未だに古典や名著しか文庫にしない出版社もあるにはある。

文庫本の中で、私がお勧めしたいのは岩波文庫である。

ちなみに「読書子に寄す――岩波文庫発刊に際して――」という格好良い文章を読むと、岩波文庫がどういう文庫かよく分かる。

この文庫には古典しか収録されていない。基本名著ばかりだから選ぶ必要もない。日本の古文学から数学まで幅広い内容を読むこともできる。興味と知識のない分野なら、別に理解しなくてもよい。これにはかって軽く触ったことがあるかなと思える状態になれば十分だ。

ただし岩波文庫は高いので、まだその価値が解っていない状態で、大量に買うのは心理的な抵抗があると思われる。だから岩波文庫が100冊くらいあるものをオークションで落札するか、古書店の通販で買ってしまう。あとは全部読むだけで済む。昔はそういうものを見付けるのは大変だったけど、今ならネットオークションはネットショップがあるので、それほど時間もかからない。

100冊セットは、誰かがそれを選んだものであり、より選別されている。選んだ人が読書人なら素晴しいセットで、それほどでもない人であったとしても、古典なんだからほぼ大失敗はないはずだ。

ちなみに筑摩文庫や学芸文庫も良いけれど、ちょっと選ばないといけない。さらに岩波文庫と比べるとセットで売ってるものを探し出すのが難しい。今はなき旺文社文庫は解説が充実している上に、たまに安く買えるのだが、残念ながら名著ばかりではないのと、収録されている分野が少し狭いためちょっと扱いが難しい。一時期流行していた名著全集的なものを安く買うといった方法もあるが、岩波文庫より読み難い、本に詳しくないと選ぶのが困難といった問題があるかもしれない。光文社古典新訳文庫は新しいものなので、セットで売ってることはほぼない。本にお金を出してもいいなと思えるようになった時に、選択肢に入れるのがいいと思う。

とにかく誰かが集めた高尚っぽい内容の文庫を何セットか合計1万円くらいで購入し、読めるだけ読むというのが、読まない人にとって最もコストパフォーマンスの良い読書になる。セット売りしている文庫で安いものは古いのが普通であり、活字や段組などの関係で読みにくいかもしれないが10冊も読めば慣れてくるだろう。

もちろん古典とはいえ、セットで買えばたまにはどうしようもない作品も含まれていることがある。その場合は読む読まないの判断を、50年後にもその本の内容が通用するかどうかで決断すればいい。それでも最初はそういうことを判断できない。だからとにかく落札したセットの本を全部読み飛すというスタイルが望ましい。

一度に大量に買ってしまうメリットとしては、自宅に読むべき本が揃っているという状況を作れることもあげられる。図書館も良いけれど、自宅でダラダラ好きなだけ読める環境を作ってしまう。

1冊の本に飽きたら別の本に手を伸ばせばいい。面白そうな本から読み進め、最後の最後に最高につまらなそうな本が残っている状況は想像するだけで素晴しい。つらまらそうなものから読み、徐々に面白くなっていくのも良さそうだ。

中古で最初からボロい古い本ならば、気も使わずペヤング食べつつ読んだりもできる。分厚いものなら持ち出すために半分に分割してしまってもいい。反対に綺麗に読みたいのであれば、消毒して天日干しでもしてから綺麗に読んでもいい。自分で手に入れた本をどう読もうが、完全に自由である。

読書と自由は相性が良い。それほどの労力もなく安く手に入った本ならば、心情的にも自由度が増すはずで、好き勝手に読むことができる。

選びたい人向けの方法

古書に抵抗のある人や、やっぱり自分で選びたいっていう人向けにもヒントを書いておこう。実はこの記事を書くに先立って、こういうことをしてみた。

私のリストは参考にしなくてもいいのだけれど、他人のリストに助けてもらうっていうのは一つの手ではあると思う。でもそれは中古のセットを購入するのとあまり変らない経験で、自分で選びたいなら全て自分で選んだほうがいい。

幸いにも岩波文庫はその年に在庫のある本を岩波文庫解説目録として公開してくれているので、これを毎年眺めつつ読む本を選ぶというのも良いと思う。

もうひとつ、電子化されているものから選ぶというのも良さそうである。

Kindleストア : "岩波文庫"

電子化されていないものがあることから分かるように、電子化されている時点で、選ばれている本だということが分かる。内容が良かったり、売れていたり、要望が多いなど色々な理由があるのだろうが、普通に買うよりも外れは少ないはずで、なかなか効率の良い方法だ。これも電子書籍が登場する前には出来ない方法で、実に便利な時代になったものである。

それなりに頑張ったものの、自分で選んだ本がハズレだった場合、どうすればいいのかというと、お金がもったいないと思えば読めばいいし、嫌なら読まずにその辺りに置いておけばいい。今はハズレでも10年後にアタリになることもある。人にあげるのもなかなかオススメだ。自分にとってはハズレでも、誰かにとってはアタリなんてこともあって、そういうのも本を読む楽しさのひとつである。

私がマジにやるなら

もっと具体的な方法もあげておこう。

仮に今の私が10冊くらいしか読んでいない人で、5万円くらいの予算で読書をするとしたら、次のような選択をすると思われる。

まずは2万円程度の予算を使い、ヤフオクなどで岩波文庫を100冊程度購入する。これは難しい本の文体に慣れるためのトレーニングのために使う。内容は理解できなくてもあまり気にしない。

岩波文庫のはカバーの背の色により、大きく五つに分類されている。

青…思想・哲学・宗教・歴史・地理・音楽・美術・教育・自然科学
黄…日本文学(古典)
緑…日本文学(近代・現代)
白…法律・政治・経済・社会
赤…外国文学

恐らく10冊くらいしか読んでいない私は、文学を理解したいとは思っていないんだろうから、なるべく白と青が多い岩波文庫のセットを購入するはずだ。それでも岩波文庫は文学の割合が多いので、結構な数の作品を読むことになる。これで文学は卒業としていいだろう。

読み慣れていない私は、先に紹介したような読み方でも、1冊読み終るのに3時間くらいかかると思われる。そんな時間で読めるのかという疑問があるかもしれないが、だいたいそんなもんである。もちろん最初はものすごく読むのが遅い。しかしなにを読むのか選択する基準なんてないわけだから、ビジュアル的に薄いものから順番に読み始めるはずだ。薄いものなら、読むのにそれ程時間はかからない。読んでるうちに慣れてくると、読書速度は早くなっていく。100冊読破する頃には、1冊2時間程度で読めるようになっているという計算である。

100冊読むことで、自分の中である程度の基準が完成するので、次は岩波文庫解説目録をダウンロードしてパラパラと読む。すでに読書経験があるから、読みたいと思う本が出てくる。そして100冊読んでいるのだから、良い本にお金を払うことには意味があると理解できている。だから新本でも古書でもどっちでもいいので、入手して読むことができる。これをくり返し、満足したところで読書を止めるといった感じになると思われる。

これで運が良ければ社会とはなにかとか、人権の意味だとか、倫理観だとかが得られると思う。それによって利益はあるけど俺は嫌といった行動が発生し、仕事の儲けが減るなんてことも起ることがあるかもしれないが、納得して生きていくことはできるはずだ。

運が悪いと、なんの意味もなかったなと思うことになるわけだけど、少なくとも読む速度は上っている。これまでなら読まずに済ませた文章も、全部読むといった人になるだろう。結果的には仕事に多様性が生れた上に、これまで以上に効率を追求することになり、年収が増えるかもしれない。

どちらにしろ上記に書いたことをするのに、トータルで600時間もかからない。人生のうち1ヶ月弱が失われるわけだが、健康法や規則正しい生活、病院などを活用し寿命を延せば、十分に回収できる(と思い込める)時間だ。

一時的な読書を終えた私は、満足かつ納得して日常に戻っていき、別のことに時間を使うことになるだろう……なんてことを書いてみたが、なかなか面白そうな読書体験である。実際にやってみたくなってしまうが、それは出来ないんだから、考えるだけで我慢するより仕方ない。

教養主義は今でも役立つ

私が古典を読むのをお勧めしているのは、日本ではそういう環境が整っているからである。技術的にも発展していて、安価に数を揃える手段まで用意されている。実に最高なのだがこれは今の日本でしか通用しない方法で、国によっては全く別の手法になると思う。

なぜそういった環境が整っているのか、色々な要因があるのだが、そのひとつに、かって教養主義というものがあったという事実を上げることができる。

教養主義は明治の末から大正時代に発生したもので、今でも大学の『一般教養過程』なんて名称に、その名残があるかもしれない。まあ実際にはちょっとだけ違うのだが、だいたいそういう感じである。

教養主義は実利的なものではなく文化を学ぼうといったもので、今でも哲学書を読むナンバースクールの学生さんなんてイメージを持っている人もいるかもしれない。学生たちが難しい本を読んでいた主な理由は、優位に学生生活を送るためだ。

かって学内で、演説や議論が盛んに行なわれた時代があった。その際に他人が知らない哲学者の名言を出すと、有利に事を運ぶことができる。普段の会話の中で名著の話が出たら、話を合わせなくてはならない。洋書を持って外を歩くと格好良いなど、スタイルの問題もあった。俺はスポーツをバリバリしているけれど、哲学の本を読むんだと威張る人間もいたりした。

かっての教養主義は、同じ場所にいる人間同士で同じ知識を共有するためのものであり、俺はこれを知ってるぞと自慢するためのものでもあった。こういうふうに書くと嫌な印象を持ってしまうかもしれないが、そういう人の一部がまともな教養を得て研究者になったりもしているので、全く無駄なものでもない。

とにかく面倒くさい説明を抜きにすると、難しい本を読むっていうのが教養主義だ。これはやがて否定され、時には馬鹿にさえされる存在になっていく。今では教養主義なんてことを言う人もいほぼいなくなったし、特に面白くもない三太郎の日記を我慢して読む若者も絶滅した。

教養主義が日本の文化に果した役割については、関係ないので置いておくが、教養主義によって現在得られる確かなメリットがある。

まず教養主義が盛り上ってなければ、ここで紹介している岩波文庫なんてものはなかったと思う。質の良い翻訳の文化もなかったかもしれない。古書店で検索すると、様々な形式で出版された名著の古書が大量にヒットする。もし教養主義があったという事実がなければ、光文社古典新訳文庫なんて企画も通らなかったかもしれない。

話が少しズレてしまうかもしれないが、かってこういう人たちがいた。上の学校には進めず、今はこんな所で働いているけれど、実は俺は違うんだと鞄に本を忍ばせる人々だ。当人が難しくて高尚だと思う本を選んでいるのだがらその本が、知識人から見ると陳腐なベストセラー小説や実用書ということもあったのだろう。

また自宅に百科事典や文学全集を揃える人たちもいた。彼らの中には、本を開けることすらしないという者もいた。なぜならそれは教養を示すためのアクセサリーにすぎないからである。そんな需要に答えるため、本棚付きの全集なんてものが流行していた時代すらある。

そういった行動は、知的な人々から時に馬鹿にされることもあったのだが、それでも彼らは彼らなりに、彼らの教養主義を生きていた。

過去の教養に憧れた人々や、エリート学生たちの教養主義に対して、別に思うところはない。ただ彼らが教養にお金を払ったことで、そういった市場が形成され、今もその影響が残っている状況は、とてもありがたいことだと思う。教養主義の時代を生きていた人たちが、読み終え売ってしまった文庫本が、今でもヤフオクなどに出品されているのを見ると、感傷的にすらなってしまう。

積極的に調べているわけではないんだけれど、日本のこういった環境はわりと特殊で、妙に民主的だったがゆえに発生した現象がある一方で、見えない格差によって出現した逃げ道のようなものもある。幻想が異常なまでに高じ、謎の文化に資金が投入されることもあった。なんだかゴチャゴチャしていて、理屈で説明できないところも多い。まだまだ私も理解できていないので、こうやってボヤかしながら書いている始末だが、とにかく我々は偶然にも良い環境がある幸運に感謝しつつ、教養主義から発生した文化を素直に利用すればいい。

ついでに余計なことも書いておくと、教養主義が消滅した現在では、その代替物として SNS で日々行なわれる議論や、オンラインサロン、いわゆる意識の高い人たちの行動様式などが発生している。これらの文化に身を置いていると、明日にはなにか良いことが起き、世の中を変えてしまえそうな気持になるわけだが、こういった活動が、後世になにか良い影響を与えるのかっていうとかなり微妙だ。そういう意味では、安価に学べる環境を残してくれた、教養主義のがマシなのかなと思う。

人のためにやらないということ

過去の人々が作ってくれた環境を使い、より良い読書するためにはどうすればいいのかといえば、彼らと反対のことをすればいい。人に話すためにではなく、コミュニティーに順応するためでもなく、ただただ自分の楽しみのために読み続ける。

SNS に表示される漫画の広告をタップして、数ページ読んだ漫画のタイトルや作家の名前を覚える人は少数派だろう。そのくらいの気持で、古典を読みすすめていく。

私はこのあたりかなり極端で、購入時は別だが、読み始める前に著者名もタイトルも見ない。だからなんとなく知ってるけど、タイトルも著者名も知らないなんて本が大量にある。最近は自分の知識をまとめて人に伝えることが多少は増えてきたので、困ることがないでもないが、それでも普段、生きて考え行動したりするのには全く困っていない。

そして、そんな読書でも古典の断片は頭に残る。その断片を思考のための部品として使っていく。使ううちに本来の形とは別の形になり、やがては普遍的ななにかへと変化する。知識を血肉化するっていうと大袈裟であり、正確な知識でもない。時にはそんなことを続けるうち、たまに運悪く失敗してしまい、変なモンスターのようなものを作り上げてしまう人もいる。それでも知識だけあるのもの、実用的に使えない人になるよりはずっと良いような気がしないでもない。

読書にまつわる話は多いけど

すぐに役立つ知識はすぐに役に立たなくなる……みたいな話がある。だから古典を読もうって流れが多いんだけど、私はそういう言説をあんまり信じてはいない。その場しのぎの実用書から学んだことが、ずっと役立つことだってわりとある。

個人的な経験になるが、小学生の頃に『気くばりのすすめ 鈴木 健二』を読んだ。この本が古典、あるいは名著だとはとうてい言えない。それでもかって全く人に気くばりをしなかった私は、人間というものはここまで気くばりをしなくてはならないのかと、異常なまでの衝撃を受けてしまった。その後に気くばりの人になったわけではないけれど、あの衝撃は私の人格形成に多少の影響を与えている。

『ノッポさんがしゃべった日 高見 映』には、50歳になった著者が水泳を始めるくだりがある。作者の才能と努力が花開き、結果的には水泳の大会で入賞するといったエピソードだ。当時はヘーって感じで読んでいたのだが数十年を経て、あああれが上達する方法だったのだと気付き、今はやろうと思ったことが、ある程度まで上達するようになっている。それでは『ノッポさんがしゃべった日』が上達するための優れたハウツー本なのかというと、そんなわけがなくただのエッセイだ。

このように読書をしていると、普通の本から強い影響を受けることがあり、たまには一生役立つこともある。ただそれはあくまで偶然で、偶然を無理矢理発生させることはできなのだから再現性はない。

それでは一番役立つ確率が高く、効率の良い方法はって考えると、やっぱり古典を読むことなんじゃないのかなっていう結論になってしまうわけだが、古典なんか読んだって意味はないんだってお話もある。

言い切ってしまうけど、そんなに読んでいない状態の人が、古典を一読してきちんと理解するのはほぼ不可能だ。環境によっては翻訳じゃなくて原文で読まなきゃ駄目ってこともあるし、理解度を深めるためには古典だけ読んだところで無駄な場合もある。100冊程度読んでも意味がないって人もいるはずだし、岩波の翻訳はダメダメで……なんて意見もそこかしこに転がっている。

色々な人が色々なことを主張していて、なんだかよく分からなくなってしまうが、読書なんてものは自分を満足させられれば勝ちである。まずい飯より美味いほうが嬉しいのは、自分が美味いと思うからで、遠くの他人の舌がいくら美味味を感じていてもあまり意味はない。

「最強に効率良く学ぶための読書」をなぜするのか、効率良く学び自分を満足させる結果を得るためである。「頭を良くするための読書」も、同じく頭を良くして自分を満足させるための手法だ。それなら学ぶとか頭を良くするといった目的をすっ飛ばしてしまい、読書自体で自分を数百時間満足させたほうが効率がいいと考えることもできないこともない。

体験できるということ

いきなりだが、私は地理に全く興味がなく知識もない。47都道府県の位置関係も怪しいといった人間だった。

最近になって必要があり、少しだけそういった本を読んだり、関連知識を覚えたりしている。子供の時に勉強しておけば今こんなことをしなくてもいいのだろうが、大人になったからこそ出来る学び方というようなものがある。

地名から規則性を見出したり、道路や鉄道がなぜこうなっているのかを考えるのはとても楽しい。大人になって知らない状態から学ぶのはなかなか楽しい経験で、学習するのは面倒くさいがその方法を考えるのは異常に面白い。

もうひとつ気にいっているのが、子供の頃と比べると社会の環境や技術が格段に向上し、学びやすくなっている点である。地図はデジタル化されているし、地名を検索すれば風景が出てくる。地名を覚えるためのアプリなんかも作られていて、地理に全く興味のない私ですら47都道府県を覚えてしまった。こういうことも子供の頃には出来なかったことで、最高に気分が良い。

もちろん私が今から地理に異常に詳しい人になるのは難しい。それでもこれまでの経験に地理を加えることで、自分だけの楽しみ方を発見できる可能性はあるわけで、それで十分じゃないかなと思っている。

私はそこそこ古典を読んでいるため、これから古典を乱読し初める大人になり、自分に衝撃を与えることはできない。だから想像することしかできないが、これもなかなか刺激的な経験だろうなとは思う。

なんでこんなものを急に書いたのか

私はこれを普段あまり読まない人が、古典に興味を持ってくれたらいいなくらいの気持で書いている。

古典は読んだ翌日からビジネスパーソンとして成長できるとか、TOEIC の点数が2倍になるといったものではない。しかしそういうことを望む人が古典を読んだほうが、より効果的じゃないのかなとも思う。

それというのもここ3-4年、なんらかの実利的な目的のためだけに勉強する人や、公共の福祉は置いておいて功利的に行動するといった何人かの人と、仕事をするという経験をした。当初はウヘーって思ってたのだけど、そういうことをしていない私が、そういうことをするのは効果的なのではないかと思い、完璧ではないにしろそういった行為をやってみると、なんだかんだで上手くいき、これまで調べていたことを本としてまとめることができた。

もしも私がウヘーと思ったままで、自分のやり方を続けていたなら、そういう機会は来なかったような気がしている。

ずっと続けてきたことのレベルを上げるのは難しい。しかし、したことがない行為は、やった時点でレベルが大幅に上がってしまう。これはものすごくお得なのではないかと思っていて、最近はわりと人の考え方を真似して行動したりしている。全然駄目な時もあるけど、それはそれで面白い。

ついでに書くとこのような内容の文章も、これまでだったらこういう書き方はしていないだろうなといった内容で、試しにやってみるかという気持で書いたものだ。ちなみにそんな作業もやはり、それなりに面白かった。

古典に話を戻すと、古典を読めっていうのはわりとよく言われることなので、一般的に見てもそれなりに意味のある行為なのだと思う。本とか全然興味ないし、古典とかクソだと思ってたわみたいな人が少し固い本を読み、一挙にレベルが上ると世の中が良くなるような気がしているので、読む人が増えると良いなと思っているわけだが、そもそも本を読まない人が15000文字超のこんな文章を読んでくれるとも思えない。世の中なかなか難しいものだと思うわけだが、これまでしてこなかったことをするのはものすごく面白いので、気が向いたらやってみると良いと思う。

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