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わたしの小説のやり方07(その3)

さっきXにこう書いた。

『わたしハ強ク・歌ウ』にある映画のまるまますじを書いているところがある。昨日もらったまっすぐな感想の中に「映画は見ていない、見てないからそこらが読めていないと思うから見ようと思う、というようなことが書かれてあったが、見なくていいと思う。そうならないようまるまま書いた、というわけで

はないけど、小説の中でまるまま書いた人には意味があったのだろう、そうする、そうしたい衝動があった。今までなら「そういう人」と書いて終わっていたもの。それがわたしは横着に外から人間を見ているようで嫌だったのだ、と今起きて思った。長くなるからnoteにしよウ

 なのでnoteにした。

 映画をまるままメモする人がいたとして、その人をあらわすとき、どうあらわすか。というようなことを考えてやっているわけではないことは強く表明しておかなければならないが。考えてはいないが、やはり考えてはいて、しかしその「考える」は、そう言葉にして「ふむふむ」とキャッチされるものとは少々様子が違うから、本来なら別の言葉を使うべきなのだろうが思い浮かばないから「考えて」と書く。だからやはり考えていて、感じていて。しかしそれへ対応するやり方みたいなものはわたしにはないから、これはこうだからこうしよう、とそうしているわけではまったくなく、他のやり方で書いてみたわけでもなく、もっと適当に読むべきだ。
 突然今、流れが変わった。「他のやり方で書いてみたわけでもなく、」まで書いてわたしはトイレへ入った。トイレの中で「他のやり方で書いてみたわけでもなく、」までの流れを反芻していた。しようと思っているわけではなく勝手に。そしたら「どうでもいいや」となった。説明がめんどくさい。しかしすぐに「いやだけど」となった。いやだけど、何だ。すこしぐらい説明してみようとしてみたらどうだ。だとして説明できるのか。できるかできないかはわからないがやってみようとするくらいはできる。で、出て来て続きを書こうとして、「もっと適当に読むべきだ」と書いた。
 しかしやはりそれじゃあここを書いてる意味がない。イミって何

 しかしね、という人がいたとする。

「しかしね、お前の書いたものを適当に読むとほんとうに意味がわからなくなるよ。」
「いやむしろ適当に読んだ方がするすると読める気がしますが。」
「引っかかりなり、そういうことかと腑に落ちるとか、理解する、自分の中の何かに当たる、疑問が解決する、疑問がわく、そうしたことのために小説は読むんじゃないの?」
「え!そうなんですか!」
「え。ちがうの?」
「体術の、武術なんですが、の人がおもしろいことをいっていて。確か、からだの軸?みたいなものを入れる練習みたいなのをするときに、考えるな、というんです。内観するな。あの天井のへりでもボーと見ながらやれ。からだが勝手に整えていく、って。そんな感じ」
「ほら、よくわからない」
「そうですか?」
「小説は言葉だろ」
「言葉ですよ」
「天井のへりを見るなんてことはできない」
「別のことを考えながらは読めますよね笑」

 わたしは今、ベンハミン・ラバトゥッツの『恐るべき緑』と山本浩貴の『新たな距離 言語表現を酷使する(ための)レイアウト』とデヴィッド・グレーバー、デヴィッド・ウェングロウの『万物の黎明』と中沢新一の『精神の考古学』を並べて読んでいて、それらの本がその周辺に漂う。たぶん

 と、話はどんどん深みに入っていく。そしてこのあたりは今度の保坂和志さんとの思考塾でのトークにつながる気がするが相手は保坂さんだからわからない。などと書いて、日が経ち、一年後とかにここを読んだ人には「なんだトークって」となるが、それはまた後で考える。


ベンハミン・ラバトゥッツ『恐るべき緑』
https://www.hakusuisha.co.jp/smp/book/b638527.html

山本浩貴『新たな距離 言語表現を酷使する(ための)レイアウト』
https://www.filmart.co.jp/books/978-4-8459-2326-7/

デヴィッド・グレーバー、デヴィッド・ウェングロウ『万物の黎明』
https://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334100599

中沢新一『精神の考古学』
https://www.shinchosha.co.jp/book/365903/

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