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わたしの小説のやり方 07(その1)

 放置しているのには理由があって、まずここを書いていたときに書いていた小説がひとまず書き上がってしまったことと、別の新しいまた小説を書こうとしていたこと。それ以外のあれやこれやと、長い間近くにいた猫の調子が悪くなり、気になって仕方がなくなったことだった。 
 再開してみようとなったのは書き上げて少し時間が経ち、といっても発表前なのでまだ小説がわたしには生々しいのと、あらたに書き出してみた小説が停滞しているのと(おそらくこれは続けるとしたら形を変える)、あれやこれやは継続中だが、猫が死んだからだ。

 小説は出来た。「出来た」というのはどの状態をさしますか、という人はいるだろうけど、「飽きたときですか」という人ももしかしたらいるだろうけど違う。小説は、出来る。「出来た」というところまでやった人にはわかる。いや待てよ?と書き直したり書き換えたりしている人にはそれはまだ出来ていないのでわからない。あれはいつか出来る。必ずとは書かない。小説が生き物にたとえられることは多いが言葉は生き物とは違う。生き物が操作しているという意味で生き物だが、言葉は言葉だ。生まれたから死ぬとは限らない。死なないままのものもいる。「創作」のままでいるものもある。
 わたしは「小説」と呼ばれてしまったものは「創作」からもう遠く離れてしまっていると考える。小説には工夫や労働が入っている。工夫を厳密にバラバラにする必要があるけど面倒なのでここではやらない。身だしなみ、みたいなことかもしれない。読める言葉にする、みたいな。もちろんもっと膨大に様々な局面でそれはある。しかしそここそを「創作」と誤解している人がたくさんいる。重なる部分はあるし、再度爆発ということもあるから線を引いて分けるのが難しいから誤解が始まるのだけど、わたしはテレビを見ながら漫画を描いている手塚治虫の動画を見たことがあるが、あれは作業だから可能なだけで、あのとき手塚治虫は「創作」にいない。いつ「創作」していたのかは手塚治虫しか知らないし、誰にも見えない。
 「創作」は光が通過して起こる何かのようで、始まりの一撃による騒動。それがあるから動き出すし止まらない。字になるか絵になるかダンスになるか音になるか暴力になるか、もしかしたら死んでしまうのかもわからない。暴れ回る馬ごときではない。爆発する光の塊だ。それが掠めるというか刺し貫くというかこの「わたし」を通過する。
 小説は出来たらもう、というか出来る前からとっくに「創作」からは離れてしまっているし、「完成」などという言葉を使ってしまっているので書き手は「創作」から離れた作業だったとはいえ、その中へ、書いていたときのようには「小説」には入れない。戸は閉じられてしまった。また再び、いつか手を入れたりする日はあるのかもしれないけど、カフカはもしかしたらそれを維持するためにほとんどのものを「未完」のままにしておいたのかもしれないけど、完成させてしまったら戸は閉まる。 
 わたしは今また『城』を読んでいるのだけど、あの小説は出来てないから、戸が閉じてないから、完成されたものには絶対に漂わない「ヌケ」がある。いやそれはそうじゃない。完成してるかしてないかをあなたは知っているからそんな感じがするだけで、あれがもし完成した小説だったとしてもそれを感じ取れるとは思わない、という人は必ずいると思うが、その人を納得させる考えはない。「ああわかる気がする」という人にだけ伝わればいい。
 いやそうか。『城』はまだ「創作」の段階にあるのか。というかカフカは「創作」のまま「小説」に、書いていたものを維持させるやり方に気がついていたのか。
 そうかもしれない。

 ここで進行途中のものとして並走しながら書いていたものが出来て「小説」になった。近々発表される。品物になる。

文藝夏号。4月8日発売。タイトルは

『わたしハ強ク・歌ウ』









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