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わたしの小説のやり方(番外編04)

『わたしハ強ク・歌ウ』の9章。書いていて楽しかったところ。ここらについてはまたあらためて書く


9
 小屋は壁に木の板が何枚も横に並んだ、釘を打たれて、外目は小さなものだったが中に入るとけっこう大きかった。小さいけれど二階席もあった。人がたくさんいた。がやがやと町の人たちは静かに、しかしそれぞれが話をしていて、ぼくは畳を何枚も重ねて作ったベッドに横にされていた。ネルは真ん中の前の方で振り返りぼくを見ていた。ママは王様のようだった。みんなまだがやがやいっていた。誰もマスクをしていなかった。誰かが大きなくしゃみをした。咳き込む人がいた。年寄りが多かった。お酒を飲んでいる人がいた。何かを食べている人がいた。子どもは走り回っていた。そういえばわたしはお腹がすいていた、と思ったらおにぎりが四つ、わたしの前に置かれた。長い髪を頭の上でしばった、黒いランニングシャツの人間が「お食べ」といった。見上げるととても大きな人間だった。分厚い胴に大きな胸。巨大な腰。ランニングシャツにすけて大きな乳首がわかった。それは上を向いて立ち上がり、わたしはあれを口いっぱいにくわえていた記憶さえあるような気がして、ぼっきしていた、と書いておにぎりを食べた。食べてから食べたと書いた。ママを見たらママも食べていた。年寄りに囲まれてママが年寄りに見えた。ママの右斜め前に黒いランニングシャツの人間を見ている白髪の老人がいた。わたしはその老人を見てランニングシャツを見た。ランニングシャツは老人に見られていることに気がついていなかった。ランニングシャツを見ていたのはわたしもだし、見ればみんなも見ていたのだけど老人だけわたしには真剣度が違うように見えたがわたしも真剣だった。何しろぼっきしていたわたしはペニスが破裂しそうで痛くさえなっていた。大きな音がして屋根が開いた。信じてもらえないかもしれないが屋根がパカッと開いたのだ。なのにママは天井から人が出て来てとしか書いてなかった。横になっていたから見えなかったのだろうかと思ったけど横になっていたらわたしよりよく見えたはずだ。わたしはその角度で見て書き記しておきたかったとさえ思いますよママ。パカンッ!と天井が、屋根が開いて、あの満天の星中空の夜空を背にしエプロンをしたママにそっくりの、ママかと思った、人間がいて、
「ツー!」
 といったら大きな乳首の黒いランニングシャツがエプロンを見た。黒いランニングシャツはツーというらしい。わたしからツーのあごの裏が見えていた。ママが、じゃなくてエプロンがいった。
「お前豚は始末したのか」
「した」
 とツーがいった。
「したならしたといえ。いわなきゃしたことがわからないじゃないか。何とかの猫みたいな状態に甘んじるほど時間の猶予はないのだよツー。知っての通りあの豚は皆様方に振る舞うものだ」
 豚が出てくるのだろうかとわたしは書いた。豚の丸焼きかな。
「急ぎでバラさなくてはならない」
 何だバラすのか。
「まだバラしてはいないんだろ? こんなところであぶらをうっているばあいか。することはやまほどあるんだ。ぐずぐずするな。それから不機嫌な顔はするな。まだしてないがこれからもするな。不機嫌はお前の気分だ。自分の気分を他人に見せるな。人間に甘えるな。それでなくても人間には人間は荷が重いのだ」
 すごい棒読みだというのがわたしでもわかった。劇をするとなると誰よりも張り切ったトゥスィクゥもそうだった。稽古のときはとても上手なのに本番になると緊張して棒読みになってそれが自分でわかるから「本番はやりにくい」といって客を睨んでいた。トゥスィクゥにとって本番がやりにくいのは観客のせいだった。「しかしそれだとトゥスィクゥ、演劇が成り立たない」といったのは先生だった。
「演劇は演じる人間とそれを見る人間がいてはじめて成り立つ。それが先生は演劇だと思う。いえ。人間のすることは全部そう。する人間がいてそれを見る聞く触る味わう人間がいてはじめて成立する。どちらにも人間がいる。片方だけなら何も起きない」
 するとツスィが
「トゥスィクゥは神に向けているからかまわない」
 といったら先生は黙ってしまって、少しうろたえて「神とは何だ」といった。それへはわたしが
「人間以外のもの全部」
 といったら先生は涙をためて
「傲慢だ。人間を嫌なものみたいな考え方は先生は大嫌いだ」
 といったからはじめてわたしは先生が少し好きになった。
 エプロンは劇の素人に違いなかった。やっぱりママなんじゃないかと振り返りママを見たらママは寝ていた。せっかく劇を見せてくださっているのに寝てんじゃないよとわたしは紙に書いて紙飛行機にしてママに飛ばしたけど、そんなには飛ばずに知らないおばあさんのおでこに当たったらおばあさんがわたしにウインクしてくれた。顔を戻すとわたしの正面、そこが舞台だとすぐにわかったのだけど黒い猿が立っていた。猿は二本足で立っていた。人間の子どもぐらいの背丈、といっても子どもにも各種いるから、百二、三十センチくらい。じっとわたしの方を見ているからわたしは少し怖くなった。突然飛びかかって来て噛んだりしないだろうか。エプロンの大きな人間、ママ似の、はいつの間にか酒を飲んでいた色の黒い痩せた黒い制服のようなものを着た人間の隣に座り、何か小声で話していた。制服は何か、あれはたぶん楽器だとわたしはわかった、を抱えていた。エプロンが観客に声をかけた。
「何がいい」
ポル・ウナ・カベサ
 と低い振動のような声で誰かがいうとまわりにいた観客が声をそろえて
「くびのさに」
 といった。制服はよしといった感じで立ち上がり楽器を鳴らしはじめた。きっとあれは優雅というのだろう、そんな曲だった。それに合わせて猿がゆっくりからだを揺らしはじめた。劇ははじまっていた。明かりは変わったりしなかった。ツーがゆっくりと舞台へ歩いて踊る猿の横に立ち、それへ猿がしがみついた。そしてツーと猿が揺れはじめた。ダンスだった。足をからめたりツーはのけぞったりした。のけぞったときランニングシャツのすそがめくれてへそが見えた。ぼくは寝ていたらしいが劇はおぼえていた。ぼくに瓜二つの黒いランニングシャツを着た髪の長い人間が出て来て、小脇に豚、小さな豚を抱えていて、悪いなと豚に優しくいいながらナタで首を落とした。ゴロンと豚の首が床に転がった。不思議と血は出なかった。小さな人間がいつの間にか舞台に寝そべっていて、ランニングシャツが「おい」と声をかけるけど小さな人間は微動だにせずそのままの体勢で、
「パパはもう動かないぞ」
 といった。するとランニングシャツ、
ツー
 とわたしは書いた。
そのランニングシャツの名前はツー
 ツーが、こういった。
「人間が一番恐れる体勢をパパはとるのか」
「と申しますと?」
 とパパと呼ばれた小さな人間がいった。
「カフカが書いている」
 ツーがいった。
「理由もなく行倒れになってそのままいつまでも転がっているような者を、人びとは悪魔のように恐れる」
「かふかというのはどこのどいつだ」
 パパがいった。
「ドイツ語で書いたただの小説家だ。大昔に死んだ」
「殺されたのか」
「結核で死んだ」
 ぼくは大嫌いだこういう劇は。筋がよくわからない上に役者も上手いと思えない。下手だ。素人だろ。もしくはプロ気取りの素人。理屈だけ装備した逆立ちも出来ない軽業芸人。綱の渡れない綱渡り舞踏家。ヒヤヒヤさせるだけはプロよりさせる。落ちたらお終いじゃないか。最悪じゃないか。死ぬのを見せるというのか。毎回毎回。役者が何人いても足りないじゃないか。何か引っかかるものはあるかとじっと我慢して見てても何もわからない。ああいう劇をする人らはあれをおもしろいと思ってやっているのだろうか。それともやっぱりわからないしつまらないと思ってやっているのだろうか。君は教師はおもしろいと思ってやっているのかとムェイドゥがぼくに聞いて来たときぼくは何もこたえなかった。どうしてこたえなかったかというと素人に話しても仕方がないと思ったからだった。なぜムェイドゥがそんなことをいうのかぼくはわかっていた。わかっていたからこそこたえたくなかった。実際を知らずに実際の中にいるものの苦悩が理解出来るはずもなく、外野は黙ってろという気持ちだった。ティート(仮)になら話せた。実際を知っていた。
「くだらない」
 パパがいった。
「お前は実にくだらない人間になった」
 パパは仕事をしなくなってしばらく経っていた。ぼくは行っていれば中学の三年生で背はパパよりはるかに伸びて、だけど声は小さいときのままだった。 
 そこまで話してママが黙ったから、で?とわたしは書いた。で? ママにおいては劇はそれからどうなるのとわたしは書いた。半分寝ながら見ていたにしてはカフカの引用なんか持ち出してママは怪しいとわたしは考えていた。作り話じゃないか?
「とにかくだからそのランニングシャツと小さな人間のやり取りが続いて、それからエプロンをした大きな人間」
 そうだ思い出した。思い出したというのはママと劇のことを話していたとき、いつかの車の中でだったか旅から戻ってから、しばらくしてからムェイドゥを見つけて帰って来てから。そのエプロンこそがママに似ていたのであって、ランニングシャツじゃないとわたしは書いた。なのにママはランニングシャツこそが自分に瓜二つだったとかいう。というかそう書いている。わたしにはランニングシャツはママとは全然違っていたし、久しぶりにぼっきしたし、ママを見てぼっきしたりしないんだからランニングシャツはママとは違った。
「ぼくを見てぼっきしたのか」
 だから違う。わたしがぼっきしたのはランニングシャツにでママにじゃない。
「しかしそっくりだったじゃないかぼくに」
 人間には人間は荷が重いというエプロンのセリフをわたしは思い出していた。どうしてかはともかく思い出していたのだから思い出していたのだ。
 老人はわたしの後ろ、ママの右斜め前からずっとツーを見ていた。
 わたしはこう思う。もしこれを読んでいる人がいるとして、わたしという人間も知らずに、その人にわたしの書くこれが理解できるだろうかと。しかし理解とは何だろう、誰かが書く、書かれたものを誰かが読む。字で書かれているから字が読めさえすれば、読める。が、読めたそれが何を書いているのか、書こうとしているのかがわかる、理解できる、というのは別の話で、読めるより理解の方が大きな顔をしている。どの絵でも目玉が目玉の機能を果たしていれば、見ることは出来る。しかしその絵を見て「これはああだ。あれはああだ」ということは誰にでも出来ない。出来る人の方が大きな顔をしている。もしくは出来ない人が出来る人を「講釈をたれやがって」とばかにする。どちらもばかじゃないか。読める、見ることはできる、見れずとも読めずとも触ることはできる、それすらできないが生きてはいる。それでじゅうぶんじゃないか。話を戻す。
 老人はわたしの後ろ、ママの右斜め前からずっとツーを見ていた。
 に戻す。
 わたしや他の人たちだってママだって寝ながらだけど見ていたけど老人の見ているはそれとは違っていた。老人はただ座って見ていただけだったけど出演者だった。じっと見ている役。それがわかったのは劇の後の飲み会で老人は小さな人間、猿を演じていた、わたしが「猿」だと思い込んでいたものは猿じゃなかったのだ人間だった! 驚きだ、まったく俳優という仕事をするものの技は、の横にいて、小さな人間が老人に何かいうのをわたしが聞いていたときだった。老人は「あんたは見るってことがわかってねぇ」と小さな人間にいわれていた。劇でしていたことを正されていた。
「ダメ出しっていうんだよ」
 小さな人間はわたしにいった。
「見るってぇのはただ見りゃいいってわけじゃねぇんだ。ただこの両の」
 わたしにも聞こえるように少しわたしへ小さなからだをひらいて、小さな人間は自分の小さなふたつの目を右手の短い人差し指と中指で指した。
「目玉を向けるんだよ。でも脳味噌につなげちゃいけねぇよ? 今日のあんたみたいに。脳味噌は無視。味噌の反応だけを使う。それ以上使っちゃうと見たもののことについて考えちゃう。あんた今日は何考えた」
 老人はしばらく考えて
「昔山で見たくまのこと」
 といった。小さな人間がいった。
「だろ。そうなっちゃうとただ見るとはすることが違っちゃう。わかるかい?」
「しかし脳味噌は何をしてようと動くものじゃないですかい」
「それを止めるのが俳優だよ」
「俳優はやはり異能だな」
「たとえば馬に乗る役があるとするだろ。おれは演出家に聞くんだ。ただ乗るのかい? それとも目的なりがあって役のこいつはあれこれ考えているのかい?って。すると演出家はいうわな、
「そうだな。向かう先でのことを考えておいてくれ」  
 しかしこれはかなり優秀な方の演出家の場合だよ。無能はおれの尋ねてる意味もわかってねぇ」
「ただ見ろとあんたはいっているんだな」
「そうだ」
「しかしだとして山のくまを思い出してるのとどう違う」
「全然違うよ」
「客にわかるかね」
「むしろ客にだけわかる。人間をなめちゃいけねぇよ。人間は俳優が口にするセリフや動作や、ここにはねぇが、おれが取っ払ったんだが明かりや音や音楽を見たり聞いたりして反応しているんじゃねぇ。生きた人間、俳優がそのときどきに発する千変万華のアトモスフィアに反応してるんだ。町を歩いていて人だかりを見たとき誰も何もいってないのに瞬間に何が起きているのかわかるだろ? 細かなことはともかく楽しいのか深刻なのか誰かが死んでるのか。わからなくさせてるのは脳味噌だよ。邪魔なんだよあれは。しかし脳味噌がなくちゃおれたちは動けもしない。間の言葉がねぇから察してくれよ」

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