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わたしの小説のやり方 06

 わたしの家には猫がいて、18年いるのだけど、わたしになついているとはいえないが逃げるわけではない。ご飯を出せば食べるしたまに撫でろと鳴く。歳をとって病を得たりしてからとくにそうなった。するとわたしは何をしていても「はいはい」と撫でる。「はいはい」はとくに猫撫で声でというわけではない。そういう芝居がかった優しさがわたしにはない。そういうのを「芝居がかった」とかいうところがわたしにはあるから猫がなつかない。
 しかしどの猫もなつかないというわけでもない。なつくものもいる。これまで一匹だけいた、というかいる。一匹しかいない。
 足を伸ばしてひらいて座って、その間に猫が寝そべる。そして撫でる。猫は自分でゆっくりとたんねんに毛づくろいをはじめる。猫の温度とわたしの温度が交差してつながる。

 猫は死んでものになる直前にだけ一致する「わたし」に接しているのだなとわたしは思う。

 小説で「わたし」とするときわたしは、どのことをいうのだろうと最初考えた。今も考えている。いわゆる「わたし」、日常で「おれ」だとか「ぼく」だとかいい過ごしているこのこれ、とは違うものだという思いだけは書く前からあった。少し速度を落とせば普段の「おれ」や「ぼく」や「わたし」は雑すぎるという感覚は誰にだって(といきなりわたし以外の人間も連れてきてひとまとめにすることこそ雑だけど)ある。というか「書く」ということはそれだけが重要なのではないかと考えていた。ここでもそのことばかり書いている気がする。違うかもしれないが読み返しはしない。

 わたしは死んだら「もの」になる。まずそれがある。ものになり冷たくなり燃やされなきゃ腐って崩れる。生きているから温かい。温かいからあれこれ考えてどれが「わたし」なのだろうとかいう。
 猫が「わたし」という認識の仕方をするのかどうか知らないが自分が痛いとき痛いのは痛いわたし(猫)、だろうからその程度の「他とは違うこれ」はあるだろうから(あるのだろうか)そう書くが、わたし(猫)が生きるにとって、今の場合はわたし(山下澄人)は生きていて温かく、ようするに都合がいいか悪いかしかない。そういい切るのは少し抵抗があるけど、だいたいそうだろう。しかしじゃあ、猫に対しているわたし(山下澄人)がどうこの世に発生し、どう育ち、何を経験して今どういるか、が関係ないかといえばそうじゃない。わたし(山下澄人)がこうであるから猫は、病を得てからようやく、どうしようもないときはわたし(山下澄人)を頼る、というかあてにするわけで、結果これまでのわたし(山下澄人)がそのままで受け入れられている。猫に親切にする、というただそれだけの行為でわたし(山下澄人)はわたし(猫)に肯定されている。しかしだからといって安心はできない。
 猫にさえ愛情があれば人間がどんなクズであろうと猫は快適でいられる。地球征服、もしくは破壊を目論む悪の勢力のボスであろうとボスに猫に愛があれぱ猫は快適だ。大量性的犯罪者であり殺戮者だろうと猫にさえ愛情があれば猫は快適だ。ここがすごい。

 わたしの思い描く「わたし」は猫のそれに近い。「猫のそれ」といってもそういっているのは「わたし」だが。
 絶対的に「それ」「そこ」の中心にいる。移動可能な木みたいに居る。移動可能なら木じゃないのか。いや、風で転がる植物がいたはずだ。木じゃないか。何だ木の定義は。
 発信元というよりは受信元。受信元、というのも変ないい方だけど、まさしく受信する元だ。そうしたものが何かしらの真ん中にいて、真ん中というか真ん中にするしかないものとしていて、そこにいる。

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