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わたしの小説のやり方08(その1)

 もう何日かすると新作について担当編集者と公開でトークをする。何を話すかの打ち合わせをしようと先日その担当者と会った。会わずに言葉にせずにためて発酵させておくべきだったと、まだ書き出してもいない小説のちょっとしたイメージを人に話してしまった後と似た後悔があるがもう会ってしまったし話してしまった。もやもやはもやもやのまま持っておくべきだ。「べき」とまでいうのがわたしがするようなことをする人間の奇妙なところだ。話してしまった。もう話す必要がない。
 小説についての話をその小説の担当編集者と話すとなれば多くの人が想像するのは、担当者が誉めつつ質問し、満更でもない顔をしながら作者が話す、だろう。わたしたちの会も迂闊に進めてしまえばそうなる。そうなったとしてわたしには何の不都合もないが観客にはある。いいえそれが見たい聞きたいという観客もいるだろうが、そうした観客なら何を話しても大丈夫だから安心だ。
 担当編集者は「イワモト」という。わたしが前に書いた『砂漠ダンス』や『鳥の会議』を担当してくれた人だ。出会った頃は若かったような気がするが、それからもう10年近く経った。イワモトくんは太った。髪型と服装は昔のままだから変な感じがする。
 古谷利裕の『セザンヌの犬』を読みつつこれを書いている。非常におもしろいこの小説(短編集)は山本浩貴たちのする『いぬのせなか座』が出版している。調べて買ってほしい。わたしは今新潮という新潮社の出す文芸誌で書評委員というものをやっていていて、何ヶ月かに一度本を読んだ感想を書いているのだけど次はこれだ。これしかない。間もなく発売される号には『いぬのせなか座』の山本浩貴の『新しい距離』について書いた。いぬのせなかが続くが(わたしの古い友達は髪の毛が太く固く、いつも散髪屋のおやじに「お前の頭は犬の背中みたいやな」といわれていたのを『いぬのせなか座』と書かれているのを見るといつも思い出す)『新しい距離』の出版元は『いぬのせなか座』ではない。
 『セザンヌの犬』について書きたいがここに書いてしまうと新潮に書かなくなりそうだからよす。

 何を話すのか。話そうとなったきっかけはイワモトくんが『わたしハ強ク・歌ウ』が当初読めなかったといったからだった。そのときはタイトルも違っていてわたしは『ムエィドゥ』とつけていた。
 わたしは小説が読めないということの意味が実はわからない。読めなくはないはずだ。知らない言語で書かれているわけではない。読めるが「何を書こうとしているのかがわからない」という意味だったのだろう。しかしわたしにはわかるわけだから、話は「ふむふむ」とは進まない。何がわからないのかがわからない限り直しようがない。しかしイワモトくんは何がわからないのかがわからない。それは説得力があった。「ここがわからない」という人は「そこ」が「どう」わからないかわかっている。イワモトくんは違った。とにかく不明な点を見極めてまとめるので待ってくれ、すぐに渡せるはずだ、一、二週間。そういって一ヶ月か二ヶ月何の連絡も来なくなった。いつメールをしても即返事が来るのに返事も来なくなった。車にでも轢かれたのかと真剣に考えたものだ。
 ようやく届いて、そこがなのか、と腑に落ちぬまま、直したら突然反応が変わった。わたしは意味が、それこそわからなかった。イワモトくんには激変したのだろうか。わたしには違わない。
 そこらがうまく話せないかと考えている。しかしそこへ到達できる自信はない。何しろわたしにはまったく違いがわからない。

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