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わたしの小説のやり方 04(そのニ

 他の人はどう書きはじめるんだろう。
 わたしは今回とても時間をかけている。しかし何に時間がかかっているのか今もよくわからない。 

 ここをやり出して今執筆中のものの場は「ブルース・リー物語」だと気づき、しかしそのことに気がついてなかったときに「親子が旅をする」が来て、わたしはだから「親子が旅をする」で書きはじめた。
 それでしばらく書いていたが、いくら書いてもしっくり来ない。今思えば違ったからなのだけどそのときは理由がわからない。ただ不思議とやめたともならない。いつもはすぐにやめるのに。
 旅立ちの朝には父と子がいる。父は「おれ」といい、子は「ぼく」という。しかし最初の書き出しが

 二人は前の晩は九時ぐらいに寝て十一時すぎに起きた。

 これは変わらずそうだった。変えようとしなかった。しかし変なのだ。ひとまず出て来ていたのは一組の親子。おれというパパとぼくという子ども。なのに「二人は」とわたしは書いていた。二人は、とそれぞれのどちらかかがいってもおかしくはないが普通に考えればおかしい。

 ぼくたちは前の晩は九時ぐらいに寝て  

 もしくは、

 おれたちは前の晩は九時ぐらいに寝て

 ぼくとパパは前の晩は九時ぐらいに寝て
 おれと〇〇(子の名前)は前の晩は九時ぐらいに寝て

 じゃないか普通なら。いや三人称でやるならもちろんおかしくはない。わたしの場合人称が狂ってるわけだから気にする必要もないといえばない。なのに引っ掛かった。他に誰かいるんじゃないか? 二人を見ているもの。その場ではなくどこか遠くで。そして

前の晩は九時ぐらいに寝て十一時すぎに起きた。

 と書けるもの。誰だ。いちばんによぎるのはわたしだ。書き手のわたし。書き手のわたしは見ているどころかわたしが書いている。それでしばらくはほとんど納得していた。納得して書き進めていた。引っかかりながら。それはよくあることでもあった。わたしはそこらはかなり雑なので、引っかかるとか平気なのだ。だいたいが小説なのだ神経質にならなくていいし書き手がコントロールしているに決まっている。それの何が問題だ。問題なのだ。しかしそれの何が問題なんだろう。

 書き手の顔が浮かぶというのは嘘だ。浮かぶのは知った顔だけで知らない顔は浮かばない。ネットで調べて顔を見たとき、それが400年前の肖像画、もしくは古い白黒写真ならもう浮かばない。死んで時間が経ちすぎている。今生きる生身は同国人ならするすると浮かぶ。なので浮かぶ浮かばないはわたしの引っかかりに関係ない。
 メルヴィルの『白鯨』は読みながらこれはいったい誰が書いているのだろうと他のどの小説よりわたしに思わせる。もちろんメルヴィルなのだが読んでる間そのことを忘れる。忘れるとはどういうことだ。中身のおもしろさに書き手を忘れる? そうじゃない。何かが、それはやり方だとわたしは睨んでいるのだが、あるやり方が書き手を忘れるさせるというか書き手を思い出す暇をなくさせる。
 しかしわたしはもちろん書きはじめの最初からはじまった引っかかりにすぐに『白鯨』を思い出したわけではなかった。ここは少し丁寧に書く必要がある気がする。

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