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わたしの小説のやり方 05
前回わたしはこう書いていた。
旅立ちの朝には父と子がいる。父は「おれ」といい、子は「ぼく」という。しかし最初の書き出しが
二人は前の晩は九時ぐらいに寝て十一時すぎに起きた。
これは変わらずそうだった。変えようとしなかった。しかし変なのだ。ひとまず出て来ていたのは一組の親子。おれというパパとぼくという子ども。なのに「二人は」とわたしは書いていた。二人は、とそれぞれのどちらかかがいってもおかしくはないが普通に考えればおかしい。
しかし違った。脱稿したものを見るとこう書いていた。
前の晩は九時ぐらいに寝て次の日の昼前の十一時すぎにぼくらは起きた。
書き直していたのだわたしは。
自己検閲というのがある。誰にいわれたわけでもなく、自身で検閲して、直すこと。何が検閲するのか。わたしではないものの基準だ。しかしわたしは検閲したわけではたぶんない。わたしはおそらく当初の薄ぼんやりした感触がわからなくなり雑に直したのだ。なぜそう書いていたのかを振り返りもせずに。
わたしはある感触において
二人は前の晩は九時ぐらいに寝て十一時すぎに起きた。
と書いていたのだ。しかしわたしは何度も書き直すうち、そのかすかな感触を忘れた。というか見過ごした。
役者をしていた頃、たとえば、ある場面でわたしはゆっくり上着を脱いで椅子の背もたれにかける。そうせよと台本に書かれていたわけではない。わたしに即興でそれをする強い動機のようなものがあるとわたしが認識していたわけでもない。しかしそうした。だけどわたしには、なぜそうしたのか、がないから繰り返すうちにそれをしなくなる。
あるときある演出家がこういった。
「あなたの演じる役はそこで上着を脱いで椅子の背もたれにかけたからこそ戯曲上で書かれているように生きたのだ。あなたによぎったことを雑に扱うな。考えたことよりあなたによぎったことこそ正しい」
勘はだいたいにおいて合っている。少なくとも今現在生きているものの勘は合っている。じゃなきゃもう死んでいる。
「それはあまりにも乱暴だ。その勘を無邪気に信じて死んだらどうする」
じゃあ勘を疑うとして死なずにいるために何を信じる。化学か。科学か。グルか。勘が間違えたときわたしは死ぬだけだ。
やる人の数の方法論があり考え方はあるので「演技とは」とするつもりはないが、演技はダンスや歌や演奏と同じで、身体をその出現元とするから、よぎったものが具体的な動きとしてあらわれてくる。瞬きをしたり、指の先を動かしたり。そしてそれは見ていれば、演じる役者の生理としてそれがあらわれたのか、それとも何かしらがよぎってそうさせたのかが、わかる。よぎったとき、「それ」は外から来ている。
「役になるということか」と聞かれたらわたしは「違う」とこたえる。その言葉の意味がまったくわからないからだ。演技の際によぎるものが何なのか、劇作家もほとんどはわかっていない。それを認識して書かれたものなどほとんどない。シェークスピアにはあったような気がする。
シェークスピアは今なら盗作の人だ。先行して書かれて上演されたものがどれにもなのかは詳しくは知らないが、あった。『ハムレット』にはあったし『リア王』にもあった。
『リア王』は老いた王が三人の娘に領土を分けるといいはじめるところから劇がはじまる。突然そう始まる。そして領土を分け与える前に娘たちに「わしへの愛を語れ」などという。長女次女は「もちろんお父様を誰より愛しています」というようなことをいう。しかし末っ子三女はいわない。愛するパパへそんなおべんちゃらなどわたしは口に出来ないと頑なにいわない。いわないからリアは激怒する。そこから悲劇がはじまる。ずいぶん乱暴なはじまり方だ。もう少し説明があってもいい。リアはなぜ突然領土を分けるなどといい出したのか。揉めるに決まっているじゃないか。そしてなぜ三女は頑なに黙るのか。少しいえばいいじゃないか。いえばそれで劇は終わるじゃないか。
そう、三女がリアへの愛を二人の姉と同じように口にしていれば劇は終わる。だからシェークスピアは、というか先行していた劇も三女にそれはさせない。しかし先行したもの、シェークスピアが元ネタにした『リア王』には三女が口にしない理由が書かれていた。リアが領土を分ける理由も。シェークスピアはそれを消した。「いらない」と外から来たのだろう。
「まさか。シェークスピアは考えてそうさせたのだ」
外から来たものに従うのと考えるのとどう違うのだろう。
二人は前の晩は九時ぐらいに寝て十一時すぎに起きた。
まだそこを書きはじめたときにはその場面には二人しかおらず、なのに「二人」とは別にあたかも他の誰かの視点があるかのようにわたしは書き、その誰かなどしばらく何年もあらわれず、だからわたしは直しているのだけど、のちにやっぱり「誰か」はあらわれた。そして突然小説は堤防が決壊したかのようにあふれ出て来た。わたしはその溢れ出て来た言葉らの出現元が何なのかまだわからず混乱した。しかし「誰か」は突然あらわれたのじゃなかった。おそらく最初からそれはいた。それは長い間外にいた。何度かわたしを通過していたのだけどわたしはまったく捕まえ損ねていたし、軌跡にも気がつかなかった。そのうち大きな音を立ててそれはわたしを通過した。
これは誰が書いているのだ
自動書記だとか降りて来ただとかいいたいわけではない。わたしは常に冷静だし、書かれていく言葉にはわたしなりに厳密なつもりだ。だからすべてはわたしがコントロールしているし、寝て起きたとき「こんなの書いたおぼえはない!」などとなることはない。しかし「それ」はわたしをよぎり、よぎったものの出現元がわからない。そしてわかった。
わたしは「わたし」というものの設定を間違えている。
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