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わたしの小説のやり方07(その4)


 わたしは昨日夢を見た。それをXに書いた。以下がそれ。  

夢に死んだ猫が来た。外から来たのか濡れている。見たら確かに雨風で台風のよう。窓からはみ出したカーテンが風でバサバサ音を立てている。わたしは夢だとわかっていて、やはり死んだのか、とも思っている。でもまずはご飯だと冷蔵庫をあけたらマグロの刺身がある。そんなものは家には普段はない。食べた。少し撫でる。猫がわたしを見る。目も見えるようになったのかとわたしは思う。よく見ていると柄が少し違う。違うというか黒猫だ。死んだ猫は、ごえもんはキジトラの白だ。それに小さい。そうか!その前に死んだよえもんか!よえもんは黒のめすで小さかった。二十年ぐらい前に死んだ。それが来た。この「よえもん」という猫はマグロの刺身が好きだったのをわたしは目がさめてから思い出した。夢の思い出させ方はすごい。わたしは夢の中でマグロの刺身を見たときそのことをまだ思い出していない。起きてしばらくしてから「あ!」と思い出した。これがラボで起こせないかと考えている

 まずは見た夢で起きたこと、ああそうだ、よえもん(昔死んだ猫)はマグロの刺身が好きだった、と思い出したことに驚いたわけだけどその夢の思い出させ方に。この場合、わたしは思い出せずに終わっていたかもしれず、思い出してなかったら思い出せずに終わるのかと思っていたら、よえもんを知る、わたしの古い「友人」といっていい、友人が、つい先だっての猫の死も一緒に体験した、そしてよえもんのことも知る友人が、同じ日に、祭壇というか猫の遺骨の骨壷や人間の死んだものの写真を飾っている場所があるのだけど、そのときにふとよえもんの骨壷を友人は撫でたというのだ後で聞いたら。そして撫でながら「よえもんが便所の前あたりでミャアと鳴いていたのを思い出し。マグロの刺身が好きだったなと思い出した」というのだ。その日だわたしが夢を見たのは。となるとわたしはもし思い出せずにいてもその話を聞き、思い出していた可能性がある。
 友人のタイミングがあるからただ単にわたしが単体で夢で思い出したというのとは違う。わたしと友人のそのときの距離は何千キロも離れていた。

 ほぼ毎月行っているラボはそもそも「人間を見る、見られる」ということが起きさえすれば「見えてくる」に重点を置いていたのだが、そこにもう一つ、起きたまま夢を見る、が再起動したラボでは加わりつつある。それはカフカの『城』を再読したことがきっかけだった。夢の作られ方をあきらかにカフカは使っている。肺の具合が悪く確か雪深いサナトリウムにいたときに書いたものだったはずだ。わたしに死んだ猫の夢で起きたことがラボでも再現することは可能か。

 小説には型がある。型さえ身につけてしまえばそこそこ書ける。書けてもそれを「よし」と読む人がいなければ成立しないが「よし」というものはいる。むしろたくさんいる。読者も「型」は安心だ。何が描いてあるかわかる絵は安心なのと同じで買って部屋に飾るならそれだ、という人は多い。もしくは権威のある抽象画。日曜画家に抽象画化は少ない、というか見たことがない。だからわたしは簡単論法で「抽象画など日曜画家の片手間じゃ描けない。抽象画など権威づけがなされていなければ認めない」としている。だから具象の絵より抽象の絵の方が上なのだ。わからないが上なのだ。小説は違う。

 小説家の保坂和志がXに書いていた。

わかろうとすること、わからせようとすること、わかるを人と共有しようとすること、わかるを言葉に落とし込もうとすること……etc.それらがわかることから自分を遠ざけている。私(保坂)と昔つきあいのあった人が、文章を書く機会があって、保坂の昔の様子を書く。するとみんな、辻褄合わせ優先で、事実と違うことを書く。
場面場面でバラバラの記憶を辻褄合わせするのが文章の働きで、それが上手い人が賞賛される時代が長いこと続いてきた。生きることには、知性が制御している表層と、知性の制御が届かない層(無意識や記憶や内臓や神経や筋肉)があって、みんなの関心はそっちに向かっているのに、文章による表現はいつまでも知性が制御する表層に留まっている。
人はわかるを知らない世界を生きさせられている。

 今週末その保坂さんとトークをします。でももう売り切れだそう。配信もないそう。

 これもXに書いたのだが  

番外編やります。文藝の夏号に掲載中の『わたしハ強ク・歌ウ』についての話を担当編集者とします。読んでなくても話はおもしろいんじゃないかと思います。夏頃に本になる予定なので聞いてから読むとか。noteにすこし載せてもいいな。配信も予定していますが自信ない。ラボは見学もできます

 こういう画像と共に



 ここに一章二章あたりを載せたいと考えている。一読してもわからない自信があると担当編集者がいった作品をわたしは「わかる」「わからない」で済ませて次へ行く気がない。雑誌に載っているのだけど文藝夏号。どうせ買うなら本になってからという人もいる。そりゃそうだ。読まずに来てもらってかまわない。オンシーズンで飛行機が高いらしいので近くの人に来て欲しい。北海道でやることにも意味はある。小説の舞台は北の大地だ。純文のイベントは東京や京都や大阪ばかりだ。担当編集者の引用掲載の許可を待つ




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