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わたしの小説のやり方07(その2)

 新作が掲載された雑誌を担当編集者が持って来てくれた。団体客が大声を張り上げる店のすみで食事をしながら話した。「何か杖のようなもの、補助線?のようなものがいる」と編集者がいった。「補助線?」とわたしはいった。「はい。これ(新作)を一読して読める人はいないと思うんです」と自信ありげに編集者はいう。「わたしの知り合いというか友だちに、あてにしているものがいて。超インテリで、いつも的を射た意見をいってくれる。ゲラのコピーをわたして読んでもらったらわからないと。人称が変わるのに混乱して、と」「人称は変わっていない」「ですよね」「変わってない」「そこなんです」
 どこなんだろうとわたしは思っているが、どこかであろうことは間違いない。店の店員の「後ろ通りまーす。熱い鉄板が後ろ通りまーす」の声がよく通る。ここは韓国料理屋で何度も来たところでオモニが厳しいから店員はシャキシャキしている。昔よりあきらかに客が増えた。やはり韓国への憧れはもうブームをこえて定着した。「ですから何かやれないかと」「前に君が、自分で山下の話し相手になって今こうして話していることをそのままトークショーのかたちとしてやるっていうのはどうすかね、と話していたことがあったけどあれはどう?」「やりましょう。読めなかった人間が話し相手というのは」「とてもいい」
 雑誌は表紙がピンクでテカテカしていて、さっきから目の端でエロ本みたいだ。裏表紙は白人の女が何人もうつる写真でテカテカで、やはりエロ本みたいだ。


 家を出て車で海に向かっていた。ママが運転。昼になりお腹がすいてハンバーガーにしようかとママがいった。「何にする」とネルへぼくが投げかけたのと同時に右の黒い車がすっと動いたからネルは聞きそびれた。空は晴れて雲はなかった。空の青は空気がそうさせているとわたしはママにいつか聞いた。空気がなかったら空はいつも夜だ。とても暑かった。ママがスマホに白いコードをつけて電源にさした。わたしはスマホやあれこれにつく白い充電のコードが大嫌いだ。わたしはわたしが部屋を出るとき、電気スタンドのコンセントを抜いて来たかどうかが気になりはじめた。ガスやら窓の鍵やら全体のことはママがした。わたしは布団をたたんで、持っていく本を選んでいた。キティーにするつもりでかばんの上に置いてあったのをやめて、モロイにして、ついでに名づけえぬものも入れて、名づけえぬものもベケットが書いた小説だ。名づけえぬもの。ちなみにこれももちろんムェイドゥが置いていった本で、モロイと名づけえぬものには訳がいくつかあって、ムェイドゥが置いていったのは古いやつで新しい訳の方はわたしが買った。だからどちらも新旧の訳でそれぞれ二冊ずつあった。他にもあるのかもしれないけど知らない。わたしはムェイドゥが置いていった古い訳の方が好きだ。黒い車のいたところへ黒い車が入って来た。そしてどうしてそのタイミングで何かいうのかママが何かいった。
「何にする」
「ダブチ」
 どこなのか、いまは? いつなのか、いまは? 自分にそれを尋ねるのではなく。私と言うばかり。考えるのはやめて。
 これが新しい方、名づけられないもの(傍点)の出だし。題からして違う、古い方、名づけえぬもの(傍点)の出だしはこう。
 はて、どこだ? はて、いつだ? はて、だれだ? そんなこと聞きっこなしだ。おれ、と言えばいい。考えっこなし。
 わたしは古いほうがいい。題も古い方、名づけえぬもの、がいい。キティーにした。
 

新作『わたしハ強ク・歌ウ』の抜粋。「キティー」というのはアンネの日記のこと。アンネは日記に「キティー」と名前をつけていた。冒頭に書いた


 寝る前に読んでまくらもとにおいていた本がなくなっていたからキティーを読んでいた。キティーというのはアンネの日記でアンネは日記にキティーという名前をつけていた。そういう名前の友だちがいたのでも、架空の誰かというわけでもなかった。日記がキティー。本の名前はだからほんとうはアンネの日記じゃなくてキティー。それでもどうしてもアンネと日記と入れたいのならアンネに日記を書かれたキティー。もしくはアンネに日記を書かれた、とされている、キティー。

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