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わたしの小説のやり方08(その3)

 トーク会の次の週末ラボをやった。そこでわたしは『わたしハ強ク・歌ウ』の九章(noteの『番外編04』に無料であげている)を朗読した。
 わたしはこれまで何度か「朗読」をして来た。トーク会の中でも二章を読んだ。

 あなたは俳優だから朗読は、ね(そこそこ上手でしょ)、という人がいるがだいたいそういう人はわたしの朗読を聞かずにいっている。わたしの朗読はいわゆる俳優がするものとはまったく違う。わたしは朗読で「すべきこと」とされていることのいくつかの多くをしない。音は出すし、言葉もあまり不明瞭にならないように最低限気をつけるが、やるのはそれぐらいだから「うまいでしょ?」という人のいう「うまさ」はない。うまくやろうとしてうまくない、というよりは、うまくならないようにするから、うまくない。 
 朗読は技の発表会じゃない。小説を書き手の肉声で読む場だ。聞き手に初めて書き手により書かれた文章のリズム、抑揚、それによるニュアンスが、やれる範囲の最低限でも伝えるのが、その作業も目的だ。

 うまくなれば自由度が増すとわたしもかつて考えていた。乗馬はうまくなれば自由度は増す。馬は斜めに歩くしバックもする。「演技」もそのように考えていた。うまくなるほど仕込む芸の数は増し、しかもそれらを高速でスムーズに、どんな劇場、大きな劇場でもカメラの前でも澱みなく行えるのだと。一瞬のうちに膨大な情報量が演技に加算されるのだと。そしてその結果自由度は増すのだと。間違えていた。異常技能者としての俳優は「好き」だが、わたしの向かいたいものではなかった。

 で、九章。朗読。読みながら非常にあわてた。朗読をしながらあわてたことなんかなかったからびっくりした。かつてのわたしに染み付いたものはまた皮膚の奥まで入り込んでいるから、まだ慌てるのだ。
 目と脳と口は文字を追うのだけど、わたしがついて行けなかった。小説の速度について行けなかった。何が書いてあるのかわからないのに読んでいた。自分で書いたものなのにも関わらず! 練習してクリアするものではないということだけはわかったが、わかったのはそれだけで、次どうすればいいのかわからない。
 わたしに速度を小説に合わせるのか、支配するのか、それとも放棄して目と口とを動かしておけばいいのか。おそらく後者だろう。わたしはテキストを支配するこを諦める必要があるのだ。
 大変に貴重な体験だった。

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