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「まんが おやさま」を読み直す 15/48 「立教」その4 「最初の語り手」は誰だったのか

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…ああ、話の展開が早すぎる。「立教」という出来事にはいつの間にか「決着」がついてしまい、「内倉でナムテンリオウノミコト」の話から「貧に落ち切れ」の話まで、ものすごい勢いで物語が動き始めている。私は中山みきという人は「ナムテンリオウノミコト」という言葉は絶対に使っていなかったはずだと思っているし、「貧に落ち切れ」というのは「状況を受け入れるための言葉」として口にしてはいたかもしれないが、彼女が自ら積極的に「貧に落ち切るための行動」をとった事実はなかったはずだと思っている。けれどもこのnoteでは、「立教」とは「何」だったのかという問題に、いまだ「決着」がついていない。今回に入ってようやくその「事実経過」とされているものの全体像が見えてきたので、今回はその内容の検証に話を絞って、進めて行くことにさせてもらいたい。

伝承の中における「立教」の事実経過を改めて整理してみると、以下のようになると思う。

① みきの長男の秀司(当時17歳)が、畑仕事の最中に原因不明の足痛に襲われた。
 …天保8年10月26日(旧暦。以下同じ)

② 長滝村の修験者、市兵衛のもとに使者が立てられ、市兵衛が自宅で拝むと、使者が庄屋敷村に戻る頃には、秀司の足痛は治まっていた。
 …天保8年10月28日

③ しかしながら秀司の足痛は再発し、中山家ではそのたびに市兵衛に依頼して、勾田村のソヨを加持台に「寄加持」を行なってもらった。そのたびに秀司の足痛は治るのだが、ほどなく再発することを繰り返し、寄加持は1年間のあいだに9回にわたって行なわれた。
 …天保8年〜9年

④ 秀司の足痛が10回目に再発した時には、父の善兵衛も眼が痛み出し、みきは腰が痛みだし、中山家は危機的状況に陥った。
 …天保9年10月23日夜4ツ刻(22時)

⑤ ちょうど近所に来ていた市兵衛が呼ばれ、寄加持をするために勾田村のソヨに使いを出したが、不在だったため、みきが加持台を勤めることになった。
 …天保9年10月24日早朝〜昼頃

⑥ みきに「神憑り」が起こり、「元の神·実の神」と称する「神」が、「みきを神のやしろに貰い受けたい」という要求を発した。
 …天保9年10月24日 日中

⑦ 中山家の家族や親族、ならびに市兵衛は、「みきを差し上げることはできない」として、「神」とのあいだに三日間にわたる問答を繰り広げた。
 …天保9年10月24日午後〜10月26日早朝

⑧ 不眠不休で「神の言葉」を発し続ける妻の体調を気遣った善兵衛は、ついに「みきを差し上げます」と「神」の要求を受け入れ、ここに天理教の歴史が始まった。
 …天保9年10月26日朝5ツ刻(8時)

…しかしながら前回までに見てきたように、長滝村の市兵衛という人は「寄加持」のような民間信仰と自分を厳しく区別していたはずの、正規の真言僧だったということ、ならびに勾田村のソヨという人は実在しない架空の人物だった可能性が極めて高いこと、この2点を考慮に入れるだけでも、上のストーリーの前提はガタガタになってしまう。一体この話はどこまでが「作り話」で、どこまでが「本当にあったこと」だったのだろうか。そもそもこの話は、誰の証言にもとづいて組み立てられた話だったのだろうか。

「立教」の現場に実際に立ち会っていたと思われる人の証言というのは、公式にはたったひとつしか記録されていない。

天保9年10月の立教の時、当時14才と8才であったおまさ、おきみ(註、後のおはる)の二人は、後日この時の様子を述懐して、「私達は、お言葉のある毎に、余りの怖さに、頭から布団をかぶり、互いに抱き付いてふるえていました。」と述べている。

稿本天理教教祖伝逸話編 2

というのがそれである。中山みきという人の長女にあたるおまささんは、みきさんよりも8年長く「明治」の28年までご存命だった方だが、その妹だったおはるさんは、みきさんより15年も早い「明治」5年に亡くなっている。「明治」の初年までは、みきさんを慕って集まってくる信者さんたちの数も数えるほどだったはずなので、この二人が信者さんの前で顔をそろえて上記のような証言をできたことがあったとすれば、その機会は極めて限られていたことだろうと思われる。しかもこの二人は、中山家に信者さんが集まり始める遥かに前の段階で、それぞれ嫁入りして家を出ている。

従って、上に書かれている「後日」というのは「いつ」のことだったのかということが私は非常に気になるのだが、何しろ天理教本部から出されている「公式の歴史」というものには一事が万事、「事実であったはずのこと」にまで「事実と異なる脚色」が付け加えられていたりするもので、上の証言も実際のところは、後年になっておまささんが述懐していたことを、「おまさ」「おきみ」の二人を主語にして「編集」し直したもの、ぐらいに拝察させて頂いておけば、それでいいのかもしれない。とはいえ世間一般ではそういう行為は、「編集」ではなく「改竄」と呼ばれているのである。素直に信じておけばそれで良さそうなことさえ素直に信じられないような気持ちにさせてしまう、天理教本部の「史実」に対するこの姿勢というものには、とても問題があると私は感じている。

それはともかく、おまささん(とおはるさん)の言葉として伝えられている上の証言の内容それ自体は、信じていいことなのだろうと思われる。「信者受け」を狙いたいのであれば、みきさんの身体が宙に浮きあがったとか、口から光の玉が飛び出したとか、いくらでも話を盛り放題な場面であるにも関わらず、「ただ怖くて布団をかぶって震えていた」としか言っていないあたり、おまささん(達)の正直な人柄が伺える感じがするし、それが却って証言の内容をリアルで臨場感にあふれたものにしていると思う。みきさんの口から「神の言葉」が発せられていた時、小さい子どもたちはその場に同席しておらず、恐らくは隣室あたりの「声の聞こえてくる場所」で身を縮めていたのだろうということ、その時のみきさんは、「いつものお母さん」と同じ人間に思えないぐらい、子どもたちにとっては「怖い存在」に映るような状況にあったのだろうということ、等々、短い内容ながら、この証言からは「その時」の様々な具体的状況を垣間見ることができるような気がする。

しかし、それだけでは、やはり何もわからないのである。おまささんやおはるさんは数十年後の人々に「それ以外の話」も絶対していたはずであるにも関わらず、他の話はどうして伝わっていないのだろう。たとえば「立教」と呼ばれる出来事が一段落した後、みきさんが母親として子どもたちにかけた最初の言葉は何だったのかとか、みきさんは子どもたちにその時「さっきまでの出来事」をどう説明したのだろうとか、私が本当に知りたいと思うのはそういう話なのだけど、そうした話は全く残されていない。

「まんが おやさま」の「原作本」が「稿本天理教教祖伝」であることは今までにも触れてきた通りだが、その「稿本教祖伝」の主要な参考資料となっているのは、みきさんの孫にあたる「初代真柱」こと中山眞之亮氏が、「明治31年」の日付で書き残した「教祖様御伝」と呼ばれる文書である。天理教本部から発行されていた「復元」という雑誌で、その自筆原稿が公開されているのだが、これを読んでみると「立教」の場面の描写の中に

仰セラルゝニハ此屋敷親子諸共貰ヒ受ケタシト仰セラレキ 尚仰セラルルニハ 聞キ入レ呉レタ事ナラバ三千世界ヲ助クベシ 若シ不承知ナラバ此家粉モナヒ様ニスルト
(此一条ハ前川隠居ヨリノ咄︎⚫︎︎⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎︎⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎︎⚫︎⚫︎⚫︎)

という割り書きがあるのが目に入る。この「前川隠居」というのは、誰のことなのだろうか。この人は「立教」の現場を実際に「目撃」していた人だったのだろうか。

調べてみるとこの「前川隠居」と呼ばれている人は、中山みきという人の弟で、通称半兵衛、後に改名して前川半三郎正安まさやすと呼ばれていた人のことを指しているらしいことが、明らかになった。「明治」の31年に84歳で亡くなっている人なので、中山みきという人が亡くなった「明治」20年の時点において、「立教」の現場に居合わせた可能性のある人で存命だったのは、おまささんとこの半三郎氏の二人だけだったということが言えると思う。だとしたら、結構な重要人物である。

しかしながらこの人は、みきさんとは17歳も年が離れていて、半三郎氏が前川家に生まれた時には、みきさんは既に中山家に嫁入りして3年も経っていた計算になる。きょうだいではあっても、それほど親密な関係で結ばれていた間柄だったとは思えない。「立教」の時点では24歳になっているが、この時にはみきさんの父親にあたる前川半七正信氏も74歳で存命だったし、前川家の家督はみきさんの5歳年上の兄にあたる前川杏助氏(当時46歳)が継いでいた。姉の嫁入り先の中山家で起こった騒動に、一緒に遊んだ記憶も持っていないような末の弟までが引っ張り出される場面は、おそらくなかったのではないだろうかと想像される。

ちなみに、「立教」の際には大勢の「親族知人」が駆けつけたということが伝えられているが、「事件」そのものは「中山家の問題」なのであって、その場に集まっていた「親族」の大多数は「中山家の親族」だったはずなのである。前川家の人間は言わばその場所へ、「あんたのところの娘はどうなってるんだ」「責任をとってくれ」等々と叱られたり懇願されたりする立場で呼び出されているにすぎないわけなのだから、どう考えても「代表2名」ぐらいがせいぜいだったことだろう。「復元」ではこのとき駆けつけた可能性がある「親族」として、前川家関係で8人もの親類縁者の名前が挙げられているのだが、家同士で戦争が始まったわけでもあるまいし、そんな大人数で娘の嫁ぎ先に押しかけることなど、まずありえなかったはずだと思う。それでは「中山家の関係」ではどんな人が何人ぐらい集まったと考えられているかというと、奇妙なことにこちらに関しては、一切記録も考察も残されていないのである。

「稿本教祖伝」には、みきという人が「立教」以後、中山家先祖代々の家屋敷を売りに出してまで貧しい人々への「施し」を始めるようになったため、それまでの親類縁者は怒ったりあきれたりして、みんな「不付き合い」になってしまったという趣旨のことが書かれている。それにしたって、中山家は藤堂藩領大和国山辺郡庄屋敷村の庄屋まで務めていた家だったわけである。親戚の数は、少なくなかったはずだと思う。たとえ「不付き合い」になったとしても、「あそこの家とあそこの家は親戚だ」ぐらいの話は、いくらでも残っていておかしくない。と言うか残っていない方が不思議だ。ところが文字通り不思議なことに、当時間違いなく何軒もあったはずの中山家の親類縁者に関する資料や伝承というのは、本当に完璧に存在していないのである。このことは一体、どう解釈すればいいことなのだろう。

天理大学教授の池田士郎氏が2007年に発刊された、「中山みきの足跡と群像」という以前にも紹介させて頂いた本では、「立教」以後のみきさんが被差別部落の人々と親しく付き合い始めたことや、ハンセン病をはじめとする伝染病患者の人々が中山家に出入りし始めたことが、周囲の親類縁者からの差別的反発を招き、「不付き合い」=絶縁を宣言される結果をもたらしたのではなかったか、という考察がなされていた。このことは、極めて重要な指摘であると思う。しかしながら、人を差別することで自分が何ものかであるという安心感を守ろうとするタイプの人間たちというのは、実のところ、それほど根性が座っているわけでもない。自分が蔑んだり見下したりしていた相手がちょっと出世すると、それまでとは手のひらを返したように尻尾を振ってすり寄って行く人間の姿など、世の中にはザラに見られるものである。まして中山みきという人を「教祖」と仰ぐ天理教団は、それから数十年後には周辺地域で一番の大金持ちへと「発展」していったわけなのだ。そうなると、「今まで黙っていたけど、実は私の家は元々中山家の親戚で」みたいなことを言い出す人間がウジャウジャ湧いてきてもおかしくないと言うか、湧いてこない方がむしろ不思議だと思う。それなのにそういう人々が現在に至るまで一人も現れていないのは、実に妙なことだと思わざるを得ない。

だから私は、中山家が「貧のどん底」を通っていた時期に「不付き合い」を宣言してきたのは周囲の親類縁者の方だったかもしれないが、信者が集まりだして中山家の「羽振り」が良くなってきて以降は、逆に中山家の側からかつてそういう冷たい仕打ちをしてきた親類縁者の側に「絶縁」を通告したという結節点が、どこかにあったのではなかったかと思っている。おそらくは、みきさんの長男の中山秀司が「戸主」を務めていた時代の出来事である。中山みきという人は間違ってもそういうことをするタイプの思想は持ち合わせていなかった人だが、秀司がそういうことをしたというのであれば、その気持ちはむしろ非常によく分かる。中山家の側からそういう強い態度に出られたら、親戚の方でも自分たちが恥をかく話になるわけなのだから、図々しいことは言えなくなったに違いない。その手の問題というのは完全に「中山家という家の問題」なのだから、そういうことがあったとして、私のような部外者がとやかく言える話ではもとよりないと思っている。

けれどもそれが「お道のひながた」になるような話かといえば、やっぱりならないだろうということは、「お道の人」なら誰でも「わかる」ことであるわけなのである。だから「お道」を代表する立場にある中山家と、その過去をある程度知ることのできる立場にあったであろう古い信者さんの「家」との間では、それにまつわる話は自ずとタブー視されるようになり、そのうちに本当に昔の事情を知っている人は一人もいないことになってしまった、という経過があったのではなかったかという風に拝察させて頂いている次第なのだが、とりあえず今回のテーマを扱う上では、それ以上の話は余談である。重要なのは、「立教」の際にその場に居合わせた中山家の親類縁者が何人いたとしても、その中から将来「お道の信仰者」になった人は一人も現れなかったということ。この事実を押さえておくことであると思う。

「立教」というのがどういう出来事だったのかということをめぐって現在まで語り伝えられている物語が、中山みきという人自身の口から語られたものでないことは、明らかだと思われる。彼女が人々に語って聞かせた話だったとしたら、その話は飽くまでも「親神」の立場から、聞き分けのない人間たちをどう説得して、みきを「神の社」として差し出すことを承知させたか、という物語として語られていなければ、おかしいわけなのである。ところが上に見た物語は、明らかにみきを「神の社」として差し出すことを要求された中山家の側の「人間の立場」から語られている。そうである以上は、この物語の「最初の語り手」はいったい誰だったのかということが、問題になってくる。その人物はその現場に実際に居合わせた人で、かつその時にみきさんの口から語られた言葉が「神の言葉」だったということを「信じる」立場をとっていた人でなければならない。それを「信じる」気持ちを持っていなかった中山家の親類縁者のような人々からは、「うちの本家は狐憑きの嫁に乗っ取られた」といったような怨みの込もった証言しか、百年たっても出てこないに決まっているのである。だから「最初の語り手」の存在を「天理教の外側」の世界に探し求めようとするような試みには、意味がないと私は思っている。

中山家の側の親類縁者に「最初の語り手」がいたのでなかったとすれば、みきさんの実家である前川家の方では、どうだったのだろうか。冷淡だったという中山家の関係者たちとは対照的に、前川家の人々はみきさんの始めた「人だすけ事業」に対し、比較的協力的だったということが伝えられている。とりわけみきさんの5歳下の妹だったくわさんという人は、嫁ぎ先の忍阪おっさか村(現桜井市)で周囲に直接みきさんの教えを伝え、少なからぬ人々を信仰に導いたという話も残っているのだが、残念ながら明治元年(1868年)というかなり早い時期に66歳で亡くなっておられるため、この人の人となりについて、具体的なことはほとんど分かっていない。「立教」の時には何しろ既に忍阪村の大西家に嫁いでいたわけだから、およそ現場に駆けつけることのできる状況ではなかったと思われる。

みきさんの父親の半七正信氏の跡を継ぎ、前川家の当主となっていた杏助氏も、みきさんには何かと協力的で、後に彼女は人々に「かぐらづとめ」を教えるにあたり、それに必要なお面の制作を杏助氏に依頼したりもしている。(もっとも、みきさんの方から使いを立てて三昧田村にそのお面を取りに行ったのは、杏助氏が亡くなってから2年もたった「明治」の7年のことであり、そのかんどういう事情があったのかということは、気になるところではある)。この杏助氏が亡くなった後に前川家の当主の地位を継いだのが、後に「前川の隠居」と呼ばれることになる上述の半三郎氏だったわけなのだが、さてこの人は、それならどういう人だったのだろう。いろいろ調べてみたところ、若い頃からみきさんのそば近くに私淑し、「昭和」の16年まで長生きされた高井猶吉さんという高弟の方の、以下のような証言を記録した文章にぶつかった。

このお道の教祖のお生まれになったのは寛政10年の4月18日で、その日の朝方には巽の方に紫の雲が下がって来たということであります。これは教祖の御弟様から聞いたのですが、裏の人や村の近所の人がそれを見たということであります。

道友社新書19「教祖より聞きし話・高井猶吉」

…みなさんはこの文章を読んで、どのような印象を抱かれたことだろうか。私はこれを見た瞬間から、「教祖の御弟様」の前川半三郎という人は、自分が実際にその目で見たわけでもないことを、さも本当にあった出来事のように人々に言い触らすヘキを持った人だったのだろうな、という風にしか思えなくなってしまった。これは改めて、「この人は絶対に現場にはいなかった」で決まりだと思う。みきさんが「この屋敷、親子もろとも貰い受けたい」「もし不承知ならこの家、粉もないようにする」云々と恫喝めいた言葉を口にしていたというのは、飽くまで半三郎氏が「聞いた話」であって、「見た話」であるようには思えない。「そういう話」を半三郎氏に聞かせた人が、どこか別の場所に「いた」ということである。

それなら、誰が残っているだろう。中山眞之亮氏の「教祖様御伝」の別の部分は、最も早い時期からのお道の信者の一人である辻忠作という人の証言を元にして書かれているらしいのだが、辻さんにしたところで「立教」の当時には、みきさんと面識さえなかったのである。辻さんもやはり、「誰かから聞いた話」をそのまま人に伝えているにすぎない。その誰かとは、誰だったのだろう。「立教」の現場に居合わせていて、その様子を「神の言葉を取り次ぐ人」の立場から語ることができて、「この人の言うことなら」と後の信者の人々も納得して受け入れずにはいられなかったような人。そんな人物が果たして「立教」の現場には、いたのだろうか。

いたとしたら、1人しかいなかったはずだろうと私は思う。

秀司である。

そして我々が見てきた通り、「立教」に関する一連の物語には、登場人物や舞台装置といった様々な「設定」の段階から、既に「作り話」の要素がいくつも入っていると判断せざるを得ないわけなのである。秀司という人は明らかに、「立教」というのが「どういう出来事」だったのかということを、後の信者の人々に正しく伝えてはいなかったのだと思われる。

従って、天理教という宗教の「立教」にまつわる物語として現在に至るまで語り伝えられている一連のストーリーは、その中で中山みきという人の口を通じて伝えられた「神の言葉」とされている様々な文言まで含め、大部分が中山秀司という人によって「作られた話」であり、そこに真実の要素はほとんど含まれていないというのが私の見解である。

だとしたら、我々は改めて問わねばならない。「立教」とは一体「何」だったのだろうか。

すべての材料が出そろったところで、次回からは改めてそのことをめぐる考察に入っていきたい。

というわけで続きます。

サポートしてくださいやなんて、そら自分からは言いにくいです。