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「教祖絵伝」を読み返す 1/25 「御誕生から御入嫁まで」

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NHKの連ドラで「おしん」が始まり、千葉では東京ディズニーランドが開業した1983年、当時4歳だった私は、母親の実家に毎月訪れる天理教の教会の会長さんが持ってきてくれた「天理少年」という雑誌を通じて、中山みきという人と初めて出会った。という話をこのシリーズの冒頭ではさせてもらったわけだが、会長さんが持ってきてくれる天理教関係の印刷物は、他にもいろいろあった。「天理時報」という新聞に、中高生向けの「はっぴすと」という雑誌、信者向けの子育て応援雑誌みたいな位置づけをもった「さんさい」、「信仰と教養のための家庭雑誌」と題した「陽気」、それに明治25年に刊行が始まったという日本最古の信者向け総合月刊誌「みちのとも」等々。

北島三郎の「風雪ながれ旅」に「音の出るもの何でも好きで」という一節があるが、それにならって言うなら文字の書いてあるものなら何にでも興味を持つ子どもだった私は、読んで意味が分かろうが分かるまいが、上に挙げた印刷物の数々には大抵すべて目を通していた。「みちのとも」だけはさっぱり何が書いてあるのか分からなかったが、「さんさい」に「子どもがこんなことを言い出したら要注意」みたいなことが書いてあるのを読んで、その裏をかいて行動するぐらいの知恵は、小学生になる頃には既に身についていたように思う。また、何歳の頃だったかは思い出せないけれど、次第に目が見えなくなる病気に取りつかれた信者の方が、「間もなくこの目は光を失うわけだが、それでも私にできる人だすけはあるのだろうか。残された短い時間の中で自分はそのことばかりを考えている」といった内容のことを驚くほど澄み切った筆致で綴っておられた文章が「陽気」に載っていたのを読んで、「この人は目が見えなくなるのが怖くないのだろうか」と真剣に考えさせられたことがあったのを、鮮明に覚えている。子どもというのは放っておいたらどこで何を読んだり見たりしているか分からない生き物なので、絶対にナメてかかってはいけないと、自分が子どもだった頃のことを思い出すにつけ私はいつも思う。

さて、そんな中、「天理時報」で平田弘史さんの劇画「教祖絵伝」の連載が始まったのは、「まんが おやさま」のスタートから半年後にあたる、83年8月のことだった。ということが今になって調べ直して改めて分かった。この「絵」を初めて見た時に子ども心におぼえた衝撃は、しかしながらやはりありありと覚えている。何だか、怖くさえ感じた。写真よりも写真みたいな絵だと思った。「絵」というのは「文」よりも「わかりやすい」ものだと思っていたけど、「絵」なのに「難解」なものが世の中にはあるのかということを、初めて知らされたような気がした経験だったように思う。

「教祖絵伝」は「まんが おやさま」と同じく、「稿本教祖伝」の記述を下敷きとして描きはじめられた作品であるわけだが、何しろオトナ向けの読み物であるため、「まんが おやさま」よりずいぶん展開が早い。その上で「まんが おやさま」では省略されている「稿本教祖伝」上のエピソードもいろいろ登場してくるもので、このシリーズでは「まんが おやさま」の進行に合わせ、この「教祖絵伝」の方も代わりべんたんに(←関西弁?)読み直して行く形式を、今後はとってゆくことにしたい。

それにつけても、これだけスゴい「絵」であるわけだから、本来なら余計なコメントなんて不要であるようにも思われるのである。しかしながらこのシリーズの目的は、飽くまでも既製の「天理教教祖伝」において中山みきという人がどのように描かれてきたかということを再確認した上で、「事実はどうだったか」をひとつひとつ検証してゆくことにあるわけだから、その作業はこの「教祖絵伝」を読み直す過程においても、貫徹してゆかねばならないと思っている。なお、「まんが おやさま」で既に検証済みの事項に関しては、省略して進むことにしたい。

まず、4枚目の絵において(ちなみにこの劇画においては、1コマ分の絵が1枚1枚、B4の用紙を丸ごと使った精密な原画として仕上げられていたのだという)、「教祖は9歳から11歳まで寺子屋で教育を受けた」とされているわけだが、彼女の幼少期に周辺地域に「寺子屋」があった事実は、確認されていない。三昧田村の近辺で「寺子屋」が開かれたことが記録に出てくるのは、幕末期になってからのことである。彼女が残した「おふでさき」における文字の使い方などから分析するに、中山みきという人はひらがなとほんの少しの漢字を知っていただけだったのではないかということが推察され、寺子屋に行っていれば漢文素読などもやるわけだから、もう少しいろいろな語彙量が使われていて然るべきだったのではないか、というのが専門家の見解であるらしい。とはいえ

「だいく」というのは、大きな苦しみを乗り越えた人やから「大苦」というのやで

伝 仲田儀三郎講義 「神楽歌解釈」

といった類の「教え方」を中山みきという人はしていた、という伝承が数多く残っており、ある程度の漢字を知っていないとそういう教え方もできないように思われるので、あるいは彼女は「能ある鷹は爪を隠す」の精神で「かなの教え」に徹していただけ、というのが実際であるのかもしれない。そのあたりのことは、もっといろんな資料を読み込んでみないと私には結論が出せないと思っている。

6枚目の絵では、「教祖は13歳の頃には浄土和讃を暗誦されていた」と書かれている。それなら、と思って私は親鸞上人が書いたという「浄土和讃」の全文をチェックし、そこに中山みきと通底する思想的内容が含まれているかどうかを確認する壮大な作業に突入せんとする正にその寸前まで行ったのだったが、よく考えてみると彼女が幼い頃に通っていたとされる善福寺は、親鸞上人の師匠にあたる法然上人が開いたとされる浄土宗の寺なのだ。浄土宗の寺で「浄土和讃」が詠唱されるのは当然のことなのだが、親鸞の書いた「浄土和讃」が浄土宗の寺でも教えられることって、あるものなのだろうか。私にもお坊さんの知り合いはいるのだけれど、その人は真宗大谷派の人で、その人に聞いてみたら「いやあ、浄土宗のことは分からないです」としか言っておられなかった。なのでこの件については、確認待ちである。危ない危ない。何しろこんな風に、「稿本教祖伝」にサラッと書かれていることをうかつに信じ込んでそれを前提に考察を進めて行こうとすると、とんでもない迷い道に踏み込んでしまう危険性が無数に口を開けているわけなのだ。「何が事実で何が事実でないか」をひとつひとつ確認していく作業がいかに重要であるかということの実例であり、今後も気をつけて行くことにしたい。

それにつけても4枚目の寺子屋の絵、子どもの頃には全く気づいていなかったのだが、とてもリアルに精密に描き込まれた絵であるだけに、その中にあって生徒が習字で書いてある文字に仕込まれた「遊び心」が無性におかしい。というわけで次回は「まんが おやさま」第4回に続きます。

サポートしてくださいやなんて、そら自分からは言いにくいです。