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「教祖絵伝」を読み直す 5/25 「立教」再考その1

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天理教という宗教の「立教」にまつわる物語として現在に至るまで語り伝えられている一連のストーリーは、その中で中山みきという人の口を通じて伝えられた「神の言葉」とされている様々な文言まで含め、大部分が中山秀司という人によって「作られた話」であり、そこに真実の要素はほとんど含まれていないというのが自分の見解である。ということを前回の記事で私は書いた。

けれども「立教」、すなわち天保9年の旧暦10月に「中山みきという人が神として生きることを人々の前で宣言した出来事」は、まぎれもなく「本当にあったこと」であり、そのことを示す傍証は、いくらでも残っている。

たとえば奈良の天理教本部では、現在でも毎月26日に「月次祭つきなみさい」が行なわれている。この26日という日付は、中山みきという人が亡くなった日が「明治」20年の旧暦正月26日に当たっていたこともあり、信者さんたちの間では二重の意味で「特別な日」になり続けているわけなのだが、元々毎月26日はみきさんの在世時から「縁日」と呼ばれていて、多くの人々が庄屋敷村に参拝に訪れていたことが記録に残っている。この慣習がいつから始まったかは詳しく伝わっていないものの、それを始めたのがみきさん自身だったことは、様々な客観的傍証にもとづいて、間違いないと思われる。このことが示しているのは、中山みきという人が「立教」の記念日に当たる天保9年10月26日という日付を、生涯にわたっていかに大切にし続けていたかという事実に他ならないと言えるだろう。

また、「立教」の記念日とされている日が、伝承の中で「神がおもてにあらわれた」日であるとされている10月24日ではなく、中山家という家と、引いてはそれを取り巻く人間世界を代表する立場にあった中山善兵衛という人が、「妻であるみきという人が神として生きることを承諾した日」であるとされている10月26日に措定されているということ自体にも、みきという人の「こだわり」を見てとることができるように私は思う。人間が「人間心」で「天理教の歴史」を書こうとしたならば、誰がどう考えても「神が地上に顕現した日」をその始まりに据えようと思うのが「自然な発想」であることだろう。事実、天理教本部から発行されている「稿本教祖伝」は、そうした順序を踏んで書き始められている。けれども「神」の立場からするならば、あえてヘーゲルを引用し直すまでもなく、「神」というものはそもそも人間の側から「神」として「承認」されることを通して初めて「神」としての存在を開始しうるものであるわけなのだから、みきさんが自分のことをいくら「神」であると力説したところで、「人間代表」である善兵衛さんからそのことを「認めて」もらえることがない限り、みきさん自身は「何ものでもありえない」わけなのである。だからその「承認」がなされた26日を「立教」の日に据えるのは、みきさんの立場から見る限り、「理にかなったこと」だと言いうる。彼女にとっては、「自分と世界との関係」が「人間と人間との関係」から「神と人間との関係」に切り替わったその「記念日」が、天保9年の旧暦10月26日だったわけである。そしてそうした基準でその日を「記念日」に指定することができた人は、やはりみきさん本人以外にはどこにもいなかったはずだと思う。

その日を彼女が終生大切にし続けたという事実は、言い換えるならみきさんが「善兵衛さんとの関係」を大切にしていたということを物語っているわけであり、このことはみきさんと善兵衛さんとの関係が「愛情と信頼」で結ばれていたことを示す傍証にもなっていると言いうるだろう。だとしたら、最初は「嫁に行くのを嫌がっていた」というみきさんの善兵衛さんに対する気持ちがどの段階でどう「切り替わった」のかを明らかにすることが、彼女の伝記を書こうとする人間には避けて通れない課題として浮上してくることになるわけなのだが、こればっかりは想像に頼る以外にない領域の問題である。善兵衛さんという人はみきさんのもとに「信者」と呼ばれる人々が集まって来始める遥かに以前の段階で亡くなっている人であり、そのパーソナリティに関する伝承はほとんど残されていない。ただ、いろいろなことを調べてゆくにつれ、善兵衛さんというのは「思っていたよりいい人」だったのではないかという気がし始めているのが現時点における私の感触であるということを、ここでは書いておくにとどめたい。いずれにしても、天保9年旧暦10月26日という日に、中山みきという人は「神」としての新たな「人生」を開始したのだということ。このことだけは、疑うことのできない事実であると考えていいだろう。

ところで、「神」が中山みきという人の姿を通してこの世にあらわれ、年を経てその姿を隠すまでの一部始終を表現した言い方として、後年「本席」さんこと飯降伊蔵という人が信者の人々に伝えた「おさしづ」では、「夜に出て昼に治まりた理」という言葉が使われている。(明治29年2月29日)。「昼に治まった」というのは、彼女が「明治」20年正月26日の午後2時頃に信者の人々に囲まれて息を引き取った時のことが言われているわけであり、今でもそれを記念して天理教本部では毎日午後2時に日本で数台しか現存していないというミュージックサイレンが鳴らされ、道行く人々はそれが聞こえてくるとみんな足を止めて教祖殿に拝礼するという情景が繰り広げられている次第であるわけなのだが、「夜に出て」というのは何のことを言っているのだろう。少なくとも伝承の中では、「神がおもてにあらわれた」とされている時間帯は、「寄加持」における勾田村のソヨさんの不在を受けてみきさんが「加持台」の代わりを引き受けたという、昼間の出来事だったはずなのである。「神」が「夜に出た」というのは、明らかに伝承と矛盾している。

3回前の記事で私は、正規の真言僧だった中野市兵衛という人が「立教」に関わっていたという伝承が事実であったとするなら、彼の行なった「祈祷」が神仏習合的な「寄加持」のような形態のものであったとは考えられないという観点から、「立教」にまつわる伝承の総体がフィクションだったのではないかという疑念を提起させてもらったわけなのだが、「市兵衛氏が関わっていた」という伝承の方が「ウソ」だったとした場合、伝承の中で語られている「寄加持」と「神憑り」それ自体は「本当にあったこと」だったという可能性も、依然残されてはいたわけなのである。「稿本教祖伝」の記述から、改めて伝承の中における「立教」の事実経過を再確認してみよう。

天保九年十月二十三日、夜四ッ刻(午後十時)、秀司の足痛に加えて、善兵衞は眼、みきは腰と三人揃うての悩みとなった。この日は、庄屋敷村の亥の子で、たま/\市兵衞も親族に当る乾家へ来て居た。呼ぶと、早速来てくれ、これはたゞ事ではない、寄加持をしましょう。とて、用意万端調え、夜明けを待って、いつも加持台になるそよを迎えにやったが、生憎と不在であった。やむなく、みきに御弊を持たせ、一心こめての祈祷最中に、「みきを神のやしろに貰い受けたい。」との、啓示となったのである。

…やはり、ここには「夜明けを待って」と書かれている。市兵衛さん本人とは、23日夜の時点で会えていたことになっているわけなのである。けれども「準備万端調え」て「寄加持」を行なうためには「夜明けを待つ」必要があったということが書かれているわけで、それが果たして事実だったのかという問題はいったん措くにしても、「寄加持」というものは基本的に昼間に行なわれるものだという当時における常識が存在していたから、ここはこうした書き方になっているのだと思われる。実際、正式な「寄加持」というものは、大勢の人を集めて酒肴の準備まで揃えた上で行なわれるものだったということが伝わっており、夜中に思いつきで始められるようなものではなかったわけである。あるいは、市兵衛氏が「加持祈祷」を行なったということ自体は「本当にあったこと」で、それが行われたのは昼間のことだったのを多くの人が現認していたから、時間帯については「動かせなかった」という事情も、あったのかもしれない。

しかしながら前掲の「おさしづ」では、「神が出た」のは「夜」の出来事だったということが、明言されている。そうである以上、「寄加持」をきっかけにして中山みきという人に「神憑り」が起こったという話の持って行き方には、やはり無理があると考えざるを得ない。「寄加持」など「なかった」と考えた方が自然だし、仮に「立教」以前の段階で「秀司の足痛」を理由に「寄加持」が数回行なわれたという伝承が事実であったとしても、天保9年10月に「神がおもてにあらわれた」出来事は、直接には「それとは無関係な何か別のこと」をきっかけにして起こったのだと考えるのでなければ、辻褄が合わないように思う。

「神が出た」のが「夜」のことだったという「おさしづ」の言葉を踏まえるならば、中山みきという人の姿を通して「神がおもてにあらわれた」とされている出来事の正確な日時は、「秀司の足痛に加えて、善兵衞は眼、みきは腰と三人揃うての悩みとなった」日時として伝えられている天保9年10月23日の夜以外にはありえなかったことになるわけなのである。それが事実だったのだろうと私は思う。だとした場合、「神がおもてにあらわれた」その時、みきさんの前には「彼女の家族」以外の人間は、誰もいなかったことになる。そして、「小さかった子どもたちは別室で布団をかぶって震えていた」という長女のおまささんの証言を踏まえるならば、正確には中山みきという人の夫の善兵衛という人、そして長男の秀司という人の二人だけを前にして、「神はおもてにあらわれた」のだと考える他にない。

つまりは、それが史実だったのだろうと思う。それが起こった時、みきと善兵衛と秀司の3人しか、そこにはいなかった。みきという人本人が「そのとき起こった出来事」について信者さんたちの前で詳しく公然と語ることは、終生なかった。善兵衛という人は何も語り残すことなく、その生涯を終えた。秀司だけがそれを、事実とは違った形で、後年みきの信者となった人々に語り伝えた。それが真実だったのだろうと私は思う。

だから、「最初に何があったのか」を知ることは、我々にはできない。推理と想像をめぐらして、ある程度までそれに迫ってゆくことは決して不可能でないとも思っているのだが、「本当のこと」を知っている人間は最初から終わりまで、この世に3人しかいなかったわけなのである。

そしてそれは、最終的には「それでいいこと」なのだと私は思っている。みきという人が最後までその時のことについて人前で語ることがなかったのは、それが「家族の内側で起こったこと」だったからということもあったかもしれないが、何よりそれは彼女自身がその時のことを「人に聞かせるような話ではない」と考えていたことの「表現」として受け止めるべき事実なのであって、だとしたらそれを踏み越えてまで彼女の心の中を覗き込もうとするようなことは、彼女と共に生きようとしている人間のとるべき態度ではないと思う。

「神が出た」のが「夜」の出来事だったということを「おさしづ」の中で語っている飯降伊蔵という人は、あるいはみきさんから個人的な関係の中で、その日「本当にあったこと」を聞かされていたことが、あったのかもしれない。けれども伊蔵さんもやはり「その時のこと」についてそれ以上何も語っていないのは、みきさんがそれを語ろうとしなかったことと同じ理由によっているのだと思われる。これまでに何回もこのnoteで言及させてもらってきた「言わん言えんの理」というものがどうして「大切」であるかということを、この二人は他の誰よりもよく知り抜いていたのである。

後年、秀司という人が「立教」のいきさつをめぐって、信者の人たちに明らかな「ウソ」を教えているのを目の前にしながら、「本当のこと」が何だったのかを「知って」いたはずのみきや伊蔵さんが一度としてそれを「ただす」ことをしなかったのは、一見してひどく奇妙なことに思われるし、何なら秀司という人とこの二人の間には最初から「共犯関係」のようなものが結ばれていたのではないかという疑念さえ、向けられておかしくないところであると思う。けれども私は、みきという人が「それをしないで」秀司という人と向き合い続けたその姿勢の中に、彼女の思想の真髄のようなものを感じることができる気がしているし、彼女が真摯な理由にもとづいてそうすることを選んだのだということは、他人の私にも「説明のできること」だと思っている。「言葉で説明することのできる、理にかなったこと」でなければ、「ひながた」にはなりえないのである。けれどもその理由について考察を始めたらまたとんでもない長文になってしまうことが今から分かっているので、今回はとりあえず、それはしない。できればそれは次回のテーマに回したい。

いずれにしても、「神がおもてにあらわれた」時、あるいは中山みきという人が「自分は今日から神として生きる」ということを宣言した時、そこにいたのが彼女の夫と長男の二人だけだったとしたならば、それは当初「密室の出来事」として開始されたのだと、考えないわけには行かない。

けれどもそれが「密室の内側の話」にとどまっていた時間は、長くは続かなかった。それは決して「おだやかな話し合い」のようなものではなく、おまささん達の証言を踏まえるならば相当に「荒々しいやりとり」として、時間を追うごとにヒートアップし続けていたことが伺えるからである。

亥の子(旧暦10月の亥の日に人々が集まって「亥の子餅」を食べる風習)の集まりで近所の乾家に来ていた中野市兵衛氏が、異変を聞いて中山家に駆けつけたという伝承それ自体は、事実だったのだろうと思われる。おそらくは自分の力でみきさんを「おさえる」ことのできなくなった善兵衛さんが、自分で呼びに行ったのである。以前の記事でも触れたように、市兵衛氏はみきさんの「師匠」にあたる人物だったと考えられており、彼女を「説得」できる人がいるとしたら市兵衛さんしかいないと善兵衛さんが考えたのは、自然な成り行きだったに違いない。けれども市兵衛さんが駆けつけた時、みきさんは既に「神になって」いたわけであり、「説得」が通じるような状態ではなくなっていた。だから市兵衛さんが「やり方」を「祈祷」に切り替えたというのは、ありうることだと思う。だとすればその時に行なわれた「祈祷」は、伝承されているような「神降ろし」の形態をとったものではもちろんなく、真言宗の僧侶のそもそもの専門分野である「人を正心に還らせるための祈祷」、あるいは「悪霊退散の祈祷」だったのだろうということが、想像される。

けれどもみきさんは元々「正心」だったはずだし、「悪霊=彼女とは別の存在」が取り憑いていたわけでもなかったはずだというのが、私の見解である。初めから全く噛み合うところのない「神と人間の押し問答」は、伝承の通りに三日三晩にわたって続けられ、その過程では「狐憑き」になった人間への「対処法」として伝えられている「松葉いぶし」や「南蛮いぶし(トウガラシをくすべた煙を浴びせること)」などの拷問的手法が、実際にとられた場面もあったかもしれない。そうこうしているうちにどんどん中山家には人が集まり出していたはずだから、そうした光景が居合わせた人々に強烈な印象を刻みつけたということは、ありうることである。

みきさんは強靱な精神力を持ってそれと対峙し続けたわけだが、体は「人間」であるわけだから、当然咳も涙も出るし、呼吸も詰まったことだろう。そのかん彼女が食事はもとより一滴の水も口にしなかったという伝承は、事実であったとすれば彼女が「自分の意思で」そうしていたのだと解釈すべきだろうが、そのことは彼女の肉体に相当な打撃を与え続けていたことだろう。「これ以上続けたら、死ぬ」というところまで、本当に行ったのだと思われる。

そこから先の事実経過は、多くの目撃者が存在していたこともあり、おおむね伝承の通りだったのだろうと思う。みきさんの体を案じた善兵衛さんが、26日の朝に至って最終的に彼女の要求を受け入れたことにより、「騒動」には「決着」がついたわけである。その「要求」とは、何だったのだろうか。発端はそもそも「密室でのやりとり」から始まっているわけだから、その正確な文言までは、我々には知りようがない。けれども、その後の経過を考え合わせるなら、その内容については明らかだと思われる。すなわち、みきさんにこれから先も中山家で自分の伴侶として暮らしてもらうためには、「これからの自分は我が身思案の人間心でなく、神の心で生きる」という「生き方をめぐるみきさんの決意の表明」を、自分も尊重しようという決断を善兵衛さんは下したわけである。

このことは、善兵衛さんという人が、「狐憑き」の「精神障害者」と見なした相手に差別的な暴力を振るうところにまで踏み込んでしまった自分の行ないが「間違い」だったということに気づき、心を入れ替えて相手と「共に生きる」ために、目の前のみきさんと向き合い直した「改心」の過程として捉え直されるべき事蹟だったと、私は考えている。その意味において、善兵衛さんこそが中山みきという人の「最初の信者」だったという天理教内の研究者の方々の見解には、私も同意することにやぶさかでない。

しかしながら、みきさんは、彼女が「神の心になって生きる」決断を下したことを善兵衛さんに「認めてもらう」ことにとどまらず、善兵衛さんに対しても「我が身思案の人間心で生きることをやめて、神の心を持って暮らしてほしい」ということを、訴えていたに違いなかったはずだと私は思っている。彼女は同じことを自分のもとに集まってくる全ての人々に対して求めていたし、また「みかぐらうた」や「おふでさき」の文言を通じて、現代を生きる我々に対しても、それと同じことを求め続けているわけである。中山みきという人は一貫して自分の「同志」を求めていたのであって、「信者」を求めていたわけではなかったはずだと私は思っている。

けれども善兵衛さんは、そこまでのことは「よーしゃんかった」わけなのである。そのことの上でみきさんの「最初の信者」になったのがこの善兵衛さんだったという見解を受け入れるなら、中山家みきという人の本当の思いが「ねじ曲がった形で」後世に伝えられることになってしまった責任の一端もまた、この善兵衛さんの「心の弱さ」に存在していたのだということを見ておかなければならないだろう。とはいえ、善兵衛さんが「自分のできる範囲で」みきさんの思いに寄り添い、これから先も共に生きる道を歩みたいと決めたその「心定め」を、みきさんはきっと、「不足を言わずに受け取った」ことだろうと私は思っている。「神の心」というのは、そういうものだろうと思うからである。

一方そのかん、秀司はどうしていたのだろうか。彼の動向に関しては、一切具体的なことが伝わっていない。ただひとつ言えることとして、中山みきという人の姿を通して「神がおもてにあらわれた」のは、もちろん根本的には「三千世界をたすけるため」であったことだろうが、直接には「その場にいた人間の心得違い」を改めさせるため、それも主要には「善兵衛さんの心得違い」ではなく、「秀司の心得違い」を改めさせるためだったはずだと、私は考えている。だから秀司は初めから終わりまで、その場を一歩も動くことができなかったはずである。そう断定しうる根拠については、次回以降に詳述させてもらうことにしたい。

蛇足ながら付け加えておくならば、「神がおもてにあらわれて」いたその「密室」から、抜け出して中野市兵衛氏に助けを求めに行くことができた人物がいたとして、それは絶対に秀司ではなく善兵衛さんだったはずだろうと私が考えたのは、上記の理由によっている。一人抜けたらその場には「二人だけ」が残されることになるわけだったのである。秀司は絶対にそこから「逃げる」ことができなかったはずだと私は思っている。その濃密すぎる真夜中の空間で二人の間に交わされたやりとりの中にこそ、「語られなかった歴史」をめぐる全ての秘密は凝縮されていたに違いないというのが私の想像であるわけなのだけど、それについて語ることは、恐らく文学的な手法を通してしか可能にならないことであるだろう。私にそれがやれるのかどうか、今のところは分からない。けれどもいずれはそのことまで含めて「ちゃんと」書きたいと思っているという決意だけを、この場では明らかにしておくにとどめたいと思う。

以上が、伝承の中から虚構と思われる要素を全て排除した上で、真実と認めることのできる要素のみを再構成して私が自分の責任で整理した、「立教」と呼ばれる出来事の「本当の事実関係はこうであっただろうと思われるところのその事実経過」のあらましである。ここまでのことしか私には分からないし、それ以上のことはどこまで行っても「想像の領域」の中でしか、語ることはできないだろうと思っている。けれどもそれだけのことが明らかになっただけでも、「天理教という宗教の教祖」として語り伝えられている中山みきという人に関するイメージは、大きく変わるはずだと思う。それはもちろん、「大きくいい方に」である。

ちなみに、中山みきという人は「新しい宗教を作ること」など最初から最後まで全く考えていなかったはずなのだから、天保9年10月26日に起こった出来事のことを「立教」という言葉で呼ぶことはおかしいという問題意識を、ずっと昔から私は持ち続けている。けれども他にいい言い方があるわけでもないし、天理教という宗教の存在を「無視」した上で中山みきという人の思想について語ろうとすることはそれはそれで無理のある話だとも思っているので、飽くまで便宜的な措置として、「立教」という言葉は今後もカギカッコをつけた上で、このnoteにおいても継続して使って行くことにしたいと考えている。

というわけで次回に続きます。

サポートしてくださいやなんて、そら自分からは言いにくいです。