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日曜日とリンゴを観て
昨日の20:45から金允洙(キム・ユンス)監督の短編作品上映を観た。
友人が制作に参加したというのでお知らせをもらったのでそのまま何となく行ってみた。映画はたぶんかなり観ない方だが、観始めると楽しめる方でもある。
特に何の事前情報もなく入場したが、観客の皆さんはおそらく映画業界の人か映画の関係者だろうか。
映画のようなに流れゆくものは特に忘れてしまいやすいので、早めに記しておこうかというので書いておく。
今回はどうやら2本立て。
1本目は本編の『日曜日、凪』
2本目は『リンゴをかじる女、風を売る男』
という作品であった。
あらすじなどは面倒なのでここでは書くことはしないので何とかしてほしい。
◎ 距離その1
『日曜日』では、女性が着ていた赤いワンピースがすごく印象的だった。家の部屋の空間は白く、向こうの扉の対角線から映されている。画面に対する人物の大きさと近さが良い。単純に気持ちよさがあった。部屋に対するアングルのプロポーションもまた印象的である。
空間を対角線上に映すことは様々な「距離」を作り出す表現として効いていたように思えた。対角線上に流れていった時間と現在。その「距離」は時空間をも切断し、土曜日から日曜日になるはずの連続性をも疑わせる。ビリヤード場に行ってからはごろっと揺さぶられたように見えたが、本当は(?)あの部屋から出ていなかったのではないかとさえ思ったりもする。
◎ 感動?
また、ある種のドライさを常に併走させながらも、しっかりと情緒的になれるところが良かった。恥ずかしくもなるような感傷的なシーンもこれまた大事だ。
突然、全然関係のないような話なのだが、最近まで作品が人を感動させることがあることを忘れていた、というか知らなかったのかもしれない。
建築や空間を見たり考えたりするときは、自分自身は感動することなど一切ない。これはあまりにもセンスが無いためなのか、実際に無い。どちらかといえば、「すごい」「面白い」「気持ちいい」とかよく出来ているなあというようなその類のものであって、心からの感動ではない。心が動かされるような人間の情に訴える内発的な感動はない。これは建築や空間の形式上の問題なのか、自分の欠落や不勉強なのかは分からないがそうなのだ。
映画というものにはそういう感動の可能性がある。
あまりにも単純すぎるかもしれないが、そういうことを今更私に気付かせてくれただけでも観て良かったなと思った。
◎ 破れる空間
『リンゴ』は『日曜日』とは異質の、そして更なる露骨なドライさを与えられ、突きつけられたゲーム的なミッションを女は粛々とこなしていく。ゲーム空間という閉鎖世界の中でのみ成立する現実、という意味ではシュールレアリスム的な振る舞いなのだが、その閉鎖世界の外側にいる者たちをモノ的に使用する。ドライに「ゲームをクリアするため」という意味ではとても実直に振る舞うのだが、垣間見える戸惑いの亀裂に血のような何かを流し込む。目的のために他者がいる世界に侵入し、ミッションが成功すると元の世界に戻ってくる。この閉鎖空間の内外を行き来することで、最後には人間の本来性のようなものが内側から破裂する。
◎ 距離その2
それから、『リンゴ』でも「距離」の撮り方は面白いと思った。
セリフが無いということが強調されるためなのか、むしろ車の走行音やラジオ音などの環境音は常に在る。女が閉鎖空間に居るのであれば、環境音が流れることでその外側が浮かび上がる。女は粛々とミッションをクリアしにいくのに対し、周辺の環境は音と共に粛々と進行する。この互いの「距離」は一向に交わらない平行線であるようにも感じた。
と、まあ考えたことを書いたが、面白かった。映画を作っている人とも色々と話してみたいし、またこういった機会があったら参加してみたいと思った。
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