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240602_記述004_IE-NIWAについて②

昨日は庭づくりをしたところまで書き留めました。
庭という舞台は整いましたが、IE-NIWAは庭があればいいというわけではないのです。もちろん庭は重要な要素としていますが、もうひとつ大事な要素としては人間が作った創作物です。今日はその創作・創作物について書いてみましょう。

改めて言っておくとIE-NIWAは開催した当初は何か緻密な計画があったわけではありません。実験的な要素が多く、やってみるという側面がほとんどでした。ぼんやりとした「これやりたいなー」の集積で出来上がっていった企画で、庭を舞台にしたいということもその衝動のひとつです。ただ、やはり庭を観てもらうだけではつまらないし、それだけで成り立つ程に強度もないことも分かっていました。庭単体での作品性を感じてもらったり伝えていくにはこれでは未熟だとも思っていたのです。もちろん庭単体を作品的なレベルの質へ持っていくことは時間の掛け方次第で出来なくはないと思います。ただ、それを観てもらうことや理解してもらうことにある一定レベルの専門性をフィルター的に設けてしまうことになると思ったのです。自分が設定した関心事に対して他者へリテラシーを求めることになってしまう、そんな気がしたのです。これは自分にとっては観賞や空間体験として不自由だと感じました。もっと本質的に場を開いていくためにはあらゆる思考の発端となる窓口の選択肢を用意できればと思ったのです。
そこで自分たちの家でやるのであれば自分たちの作ったモノを全部見せてしまおうと思ったのです。自分の作った庭だけを切り取り見せるのではなく、自分たちの生活空間からその手つきまでが見えるぐらいまで小さな思考の断片を見てもらえたらと思ったのです。そうなると人によって興味を持つポイントが異なります。ある人は庭について、またある人は創作物、場所全体、飲み物、人間関係と。その複数性が連鎖しながらその人独自の空間体験になるのだと思います。
場を開くとは透明なガラス張りにしてリテラルな意味でオープンにしていくことではありません。ここでのオープンさは、自分たちの身体感覚まで含めた生活空間を見せてしまう試みでした。見せたくない隠したいものはたくさんあるけれどもそれも含めて自分たちの空間なのではないか。少しきれいにした部屋着のような空間状態を見せてみることから始めてみました。これが場を開くひとつの方法なのかもしれないと試してみました。

生活空間にはモノが溢れている。旅先で拾ってきたものや友達のお店で買ったもの、自分たちが欲しくて作ったものなど沢山ある。特に自分たちが作ったものには自分たちの身体感覚が嘘偽りなく乗っかっている。その創作物の質の良し悪しよりもその身体との接続性という意味で見てもらう価値があると思った。
極端に言うと私は、人間はものづくり以外にやることなんてないと思っている。もちろんデザイナーが作るものづくりという意味ではない。ここでの意味はもっと広義で、料理も教育も器もマッチングも政策も全部ものづくりだと思っている。そういった意識の中で皆が何を作っているのかにしか興味がない。そうやって「自分はこれを作っている」を改めて意識しながら生きていければもっと楽しく世界がまわるとさえ思っている。

話を戻すと、結果的にこのIE-NIWAで言う創作物を見せることは、自分たちはこんな感じで作ってます!(=生きてます!)を見せることでもあるなと思っている。そもそもアートというのはそんな生きている様を見せるものだろうという理解でもある。服や陶芸や家具や立体を作っているのはこれで生きていますの意味なのです。


またしても少しずつですが、今回はこんなところで書き終えます。
書くことへの体力もつけて行かねばなりませんね。
続きはまた明日。


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