「敷居が高い」のも悪くない

「敷居が高い」という言葉をネガティブなイメージで使うことが多い気がする。
敷居が高いことで新参者が入りづらく、その団体・活動などの新陳代謝が起きないと思われているのが理由の一つかと。

しかし、敷居が高いのは悪いことばかりではない。あえて高く設定することでその団体や活動の質を下げないようにすることができる。
例えば演劇についても観劇料がそれなりに高いと確かに誰でも観ることができない。どれだけその劇団が大好きでも金銭的理由で観れないこともザラにある。こうゆう場合は何とかしてその熱心な方を劇場内に踏み入れさせたいので策を練る必要があります。(例えば、毎月5名様まで無料招待!しかし何故観たいのか、と言う熱意を作文で送ってください!など)金銭的な理由だけが問題なら金銭面に代わる何かを観劇者に求めれば良い。(先の例ならその作文を劇場に貼るなり、SNSで公開するなりするとそれそのものが広告になるので劇団にとっても価値がある)

何でもかんでも敷居を下げすぎると質の低下になり継続が難しくなる場合もある。
先の劇団の例を続けて使うと観劇料を下げるとその分演者の収入が減る。その分、稽古ができなくなる、演劇の質が下がる。または、誰でも劇場に入ることができると観劇マナーの悪い(というか知らない)人が増えたりして気持ちよく観れなくなったりする。(前の座席を蹴るとか、飲食音がうるさいとか)

こういった演劇とは別の部分で気を遣う、時間を使わなくてはいけなくなるのでその分演劇に当てる時間が減り、質が下がってしまう可能性がある。
もちろん、こういったことも含めて演者だけではなく、事務の方や裏方さんがいるのですがとても大変。やる必要のない仕事に追われるって精神的に辛いですよね。

そのため、価格だったり、時間帯だったり、はたまたアクセスの悪い辺鄙な場所など敷居というフィルターをあえて作ってそこを透過した人だけが参加できるようにするとそのフィルターを潜り抜けたという共通意識があるので上手くまとまりやすい。敷居が高いと余分な部分が減ってその団体や活動に自律性が生まれて悪いことばかりじゃないよ、ということ。
ポイントは敷居が高過ぎると新参者が入らなくなり、新陳代謝(新しい考え方や価値観)が生まれず徐々に濁って散っていく。敷居が低過ぎると先ほど述べたように質が低下しやすい。

適度なバランスをとっていくことが誰にとっても幸せだし、その活動の中心にいる人も心地よいのではないかと思います。

なぜこんなテーマを書いたかというと実際当院の施術料金は八王子市の中でも高価な部類に入ります。実際、料金を下げても生活が成り立つレベルの生活水準の低さ(と高尾のコスパの良さ。#高尾最高か )なのですがこれまでの経験上何でもかんでも価格を安くすると当院が対応出来かねる訴えや症状の方が増えてしまうのでその方を助けることもできないし、僕自身不調になる。誰も幸せにならないのです。

価格というフィルターをあえて作ることでその敷居を越えて来てくれた方にだけ全力を尽くしたいし時間を使う方がお互いに価値があるという考えです。
まだまだ、考えることばかりで未熟者ですがどうぞよろしくお願いします。

今後もより良質な発信をしていくためのサポートをできる範囲でお願いします!