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一人ひとりが自分自身において美意識を持つ / 醸成するということ。Design Week Kyoto Creative Sessionに触発されて。

1月19日は、このイベントに参加してました。
以下は、イベントに参加して、私がそれに触発されて思い浮かんだことがらであり、イベント内容の要約ではありませんので、何とぞその点はご理解くださいますようにお願いいたします。


安西洋之さんとは、ちょうど1年前に今日のイベントの主催でもある北林さんとともに、京都のホテルで5時間くらい議論してました。私にとっては、次に考えるべきテーマの〈眺望〉が見えてきたという意味で、ものすごくありがたい機会でした。

それから1年を経て、今日。
安西さんの記事はこまめにフォローしてるので、内容的には「なるほど」というあらためての得心と、そこからコアとなる論点を索めながら伺ってました。

もちろん、複数の興味深い論点が提示されていましたが、私のなかであらためて考えさせられたのが、標題にも掲げた「一人ひとりが自分自身において美意識をもつ / 醸成していくことの重要性」です。

これは、安西さんがリトアニアで取材された内容にもとづいて思索された記事にも述べられていましたが、今回のイベントでの一つのポイントになっていたように、私には感じられました(ちなみに、リトアニア関連の記事はここにリンクを貼ったもの以外にもあります。併せてご参照ください)。

全体主義(一部の社会主義のみならず、それ以外の全体主義もあります)においては、個々人の自由が否定されます。

もちろん、完全な自由というのは理念上のものであって、いわゆる自由主義を標榜する社会であっても、秩序は形成ないし生成されます。

そのような社会においては、本来的に個々人がそれぞれに抱き、表現する〈美意識〉にも制約が加えられます。それによって、リトアニアにおいては、デザインの発展に好ましからざる影響が出たわけです。

じゃあ、〈美意識〉とは何なのか。

これは、この日のイベントで“正解”が示されたわけではありません。そもそも、正解を求めること自体が方向としてずれているといってもいいかもしれません。

私自身は、この〈美意識〉について、いわゆるfine artを見てどうこうという範囲にとどまるものではないと考えています。何ならbeautiful / Schönheitという言葉で述べてしまうことにも語弊が生じる虞もあるかな、と。

安西さんが詳しく取材され、この日も採りあげておられたブルネロ・クチネッリのサイトには、以下のような提唱があります。

《美》とは。その対象は物であったり、人であったり、考えであったり、やり方、そして言葉であったりします。そして暮らしの《美》。美しい世界。美しく輝かしい未来。《美》は煌びやかな飾りではなく、うわべだけの表面的な属性でもありません。《美》とは、人や物の内なる特性の一つの形な のです。美しいものは前向きで発展的です。

〈美意識〉と〈美〉とは、微妙に異なるものでしょうけれども、それぞれの個々人がどう〈美〉を認識するのか、その個人における総体が〈美意識〉と言っていいでしょう。

ただ、どうしても日本語で〈美意識〉というとき、内向性を帯びた言葉として捉えられがちです。ここでいう内向性とは、否定的な意味ではまったくありません。要は、個人内部に向かって生じる事態であって、外部に向かうものではないというような捉え方をあらわしています。

〈美意識〉というのは、たしかに個々人の内側に生じるものです。その意味において、一人ひとりがそれぞれの〈美意識〉を抱き持ち、それを醸成していくという様態として現象します。

しかし、人間社会が個々人だけで完結するものではないことは、今さら言うまでもないでしょう。ここにおいて問題となるのが、〈美意識〉の伝達・共有可能性です。

古代において、〈美意識〉とは共同体の規範として共有されるべきものでありました。今でも、そういう性格はあるでしょう。白川静の『初期万葉論』において叙景歌の成立が一つの章を立てて議論されていますが、そこからも窺い知れるように、「景を詠む」という行為は単に景色の美しさに感動して、それを言語化するというだけにとどまらず、共同体を言祝ぐような側面こそが中核にあったとされています。さらに、「景を詠む」ということは〈国見〉という王権的な特徴をもっていたことも、念頭に置いておいてよいでしょう。クチネッリが古代ローマのハドリアヌス帝の言葉「わたしは世界の美に責任を感じた」を引用しているのも、ここと結びつくように、私は感じています。

今は、すでに古代の絶対的王権の時代ではありません。むしろ、個々の一人ひとりはどう生きるのか、それを考え、実践することが可能になっている時代です。もちろん、それぞれにおいてさまざまな制約はあるとしても。そして、その制約が本人の意思によらず、きわめて大きい人も。そのことを念頭においておいたうえで、なお個々人が〈美意識〉を抱きもつことが可能な時代であるといえると思います。

そういう状況において、今なぜ〈美意識〉に注目が集まっているのか。それはおそらく、さまざまな技術の進展によって生活の遂行がきわめて便利になっていること、そしてさまざまなことが遂行可能であるゆえに多忙化し、〈美意識〉なるものを意識することが薄らいできたからではないかと、私は推量します。

だからこそ、〈美意識〉への注目が集まってきた、と。

この日、安西さんが冒頭に紹介されたMade in Italyへの関心の高さは、こういった〈美意識〉への関心を日々の生活のなかで強靭に持ち続けているイタリアのものづくりに対する注目や評価に起因するといえましょう。

さて、そこで考えるべきは、Made in Italyを表層的に模倣することではないのは明白です。

安西さんがミラノ工科大学のベルガンティの所説を紹介しておられるのも、ここにつながってくると、私は考えています。

前者の『突破するデザイン』には、個々人がもつ〈美意識〉を醸成し、鍛えあげたうえで、信頼できるメンバーとのペア、さらにはラディカル・サークルでの〈スパーリング〉をへて、解釈者の多様な解釈に晒し、そのうえでpubilicに提示していくというプロセスが提唱されています(同書のPart3参照)。

これは、まさに一人ひとりが〈美意識〉を抱き持ち、それを醸成し、他者とのかかわり(バフチン的には〈交通〉とも言えましょう)において鍛えあげていき、さらに共有への可能性を拓いていくという考え方で、私個人はカントが問題提起した〈共同体感覚〉の議論とも通じるように、今のところ考えています。

このようにみてきたとき、個人的には〈美意識〉という言葉でも差し支えはないのですが、あえて〈美的 / 感性的眺望;aesthetic Prospect / Perspective〉という言葉を充ててみたいとも思うのです。これは〈美意識〉も含みこんだ概念としてであり、個人の内側で醸成された感性的なものの映じ方として〈美意識〉が、その人の実践を通じて他者に対して提示されていくさまを表現しようとしてのことです。ただ、もちろん、私のなかでもまだ生煮えなので、これから折をみて考察を深めていきたいと思います。

この点が〈企業者的判断;Entrepreneurial Judgement〉とも深くかかわってくるはずだという見立てをしています。その点で、これは経営学における研究テーマたりうると考えています(←自分に言い聞かせてるみたいですがw)。


以上、イベントの内容ではなく、イベントに触発されて私が思いついたことをつらつら書いてみました。あくまでも、私の雑多な思索である点、ご了承のほどを願いあげます。

#経営学雑考
#経営学と美学
#感性的眺望


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