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21名のCultivatorsへ:山縣ゼミ第12期修了に寄せて

例年、卒業とゼミの修了に寄せて、蕪雑ながら一文を送っています。いくらか編集したうえで、noteでご披露いたします。

※ 秘伝のタレみたいなものなので、過去のメッセージと重なる文章がありますが、これは意図的なものです。


山縣ゼミ第12期の21名へ

卒業おめでとう。
結成早々の伊勢春合宿にも行けず、ほぼ飲み会もできず、結局、イベントらしいイベントもほとんどできなかった。みんなにとっては、心残りも少なからずあっただろうと思う。私も心残りはある。

けれども、だ。
ふつうであれば、そこで萎えてしまうところ、プロジェクトも卒論も、時にめげそうにもなっただろうし、投げ出したくなったこともあっただろうけれども、オンラインもオフラインも活用して、みんなはやりきった。これは、ほんとにすばらしいことだ。

3回生のときの価値創造デザインプロジェクト。俺にとっても、オンラインをベースにやるというのは不安だらけだった。しかし、2020年度の前期、わずかな機会を活かしながら対面でプロジェクト先を訪問したり、zoomやMiroを活用しながらオンラインで進めていった経験は、おそらくみんなが思っている以上に、これから社会で活躍していく際に役に立つ。

プロジェクトというのは、もちろん何らかの目標を立てて、それを実現できるのが望ましい。けれども、いつもそううまくいくものではないのも事実だ。大学での学びにおいて、俺がいつも念頭に置いているのは、「意義のある失敗と到達」。やっている最中に、それが意義あることかどうかは、なかなかわからない。けれども、どういう状態をめざしてやっているのか、そのために今何をしているのかを自分で認識しておくこと、そして、失敗したがゆえに、次に挑むときにはどうすればいいのかを見定められるようになること。それを身体化できることこそが、大学でプロジェクトをやる意義だ。その意味で、第12期の価値創造デザインプロジェクトは、コロナゆえにさまざまな障害に悩まされたけれども、まさに「意義のある失敗と到達」を実現できていた。

そして、何より第12期の試みが第13期のプロジェクトをしっかりと方向づけてくれた。これは最大の到達だ。いずれみんなも実感するようになると思うが、自分 / 自分たちの到達を〈成果〉だと考えがちだが、それ以上に次へとつながる土壌を耕す(cultivate)こと、それこそが最大の成果なのだ。ここまで書けば、もう、すぐにわかってくれると思うけど、cultivateという営みによって生まれるのがculture=文化である。第12期の最大の功績は、山縣ゼミのcultureをしっかりと耕してくれたことにある。

2021年度の卒業論文。卒論は、みんなにとって“苦痛”だったかもしれない。けれども、少しなりとも自分が見出したテーマをとことんまで探究すること、それを表現することによって得られる充実を感じていてもらえたら、教員として何より嬉しい。

卒論を書き上げていく作業というのは、孤独感があったとも想像できるが、どうだろうか。だからこそ、オンラインでゼミをやったにもかかわらず、大学で参加していたメンバーが、かなり多くいたのだと思う。大学に来ることそれ自体というよりも、個々それぞれの活動をするために、空間を共にするということが自然と生まれていたのは、ひじょうに嬉しいことだった。それは、他のゼミに比べても、おそらくは厳しいであろう山縣ゼミだったからというのもあるかもしれない。たしかに、ゆるくやることもできる。しかし、そんなのはみんなにとって何の意味もないのだ。ちなみに、「こういうふうに論じていたら、もっとよりよくできたかもしれない」という思いは、何らネガティブなものではない。むしろ、完結してしまう学びのほうがダメなのだ。「学び続ける」とは、そういうことなのだ。小さな歩みでもいい。新しい世界が切り拓かれていくことを願っている。

みんなにとって「学び」とは、大学の4年間を通じて、どういうものになっただろうか。これからおそらく、望むと望まざるとにかかわらず、「学び続ける」ことが求められるようになる。これからの社会は、われわれが思っている以上に動揺するかもしれない。動揺する社会のなかで、自由であるために、そして平和に過ごすためには、さまざまな状況をよく見て、よく考えて、そして自分自身の「構え」をしなやかに整えていくより他にはない。それこそが、「学び続ける」ということなのだ。だから、学び続けるとは、単に知識を増やすことではない。もちろん、知識も結果として増えるが、大事なことは自分の視座が拡がっていくこと、深まっていくこと、これが大事。そして、そこでは他者への想像力がクリティカルに重要になる。これは、ビジネス的な成功にだけ必要なことではない。日々の生活においても、欠かせない。このことの大事さがわかっていたら、大学で4年間学んだ意義は十分にある。

最近ちょっとはまっているヒグチアイという歌手の「劇場」という歌に、こんな詞があった。

私が存在する意味はわからないのに
あなたが存在する意味はこんなに胸に溢れている 
出会いや別れを肯定や否定で色付けしたくない

ヒグチアイ[2022]「劇場」『最悪最愛』

人間は、私自身も含めて誰しもがすぐに肯定 / 否定や善悪で決めつけたがる。それは、不安だから。人生におけるさまざまなことたちは、光の当て方で映じる姿もかわる。そして、自分自身という存在がわからなくなることだって、たくさんある。けれども、一人ひとりの人間という存在は、かかわりあった人たち、そして周りにあるモノたち、そういった諸々との関係性のなかで、つねに生まれ続けていくものだ。この2年半余りの山縣ゼミ第12期として生まれた、たくさんの関係性もまた、みんなそれぞれの「自分自身」を構成している。もちろん、私についても同じだ。それは、いつ、どこで、かはわからないけれども、必ずみんなそれぞれのこれからの人生を支えてくれる。

最後に、私の好きな言葉を贈る。

幸福になるのは、いつだってむずかしいことなのだ。多くの出来事を乗り越えねばならない。大勢の敵と戦わねばならない。負けることだってある。乗り越えることのできない出来事(中略)が絶対にある。しかし力いっぱい戦ったあとでなければ負けたと言うな。これはおそらく至上命令である。幸福になろうと欲しなければ、絶対に幸福になれない。

アラン『幸福論』岩波文庫、312頁

そして、アランはこうも言う。

他人に対して、また自分に対しても親切であること。他人が生きるのを支えてあげること、自分が生きていくのも支えてあげること。これこそ、ほんとうの愛徳である。親切とはよろこびにほかならない。愛とはよろこびにほかならない。

アラン『幸福論』岩波文庫、246頁

私がみんなに伴走するのは、今日でいったん一区切りだ。もちろん、リズムを取り戻したいときには、いつでも戻ってくればいい。大学のカリキュラムとしてのゼミは終わるとしても、関係性としてのゼミはこれからも続く。だからこそ、ここはみんなに開かれている。

これからの長い人生、どうか心も身体も健やかであるように。ただただ、それを願う。また会おう。

2022年3月19日
山 縣 正 幸


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