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『迷うということ』と『野外科学』(2)

2年前、ソルニットの「Wanderlust」、日本語訳で『ウォークス』を読んだとき、衝撃を受けた。ありていの言い方だが、衝撃を受けたのだ。新潟市に滞在していたある日、朝早く起き、信濃川の河川敷で読みふけったことは鮮明に記憶に残っている。

「Wanderlust」は2000年ごろに書かれた本であり、「A Field Guide to Getting Lost」は2005年である。より主観的に、ソルニットの過去の回想と経験が溢れたエッセイである。直接的なガイドではないが、読み終えたときには、それが、Getting Lostするための、Guideだったと、読後感が身体的な感触として残っている。身体的、とあえていった理由は、読んでいる最中に迷子になったかのような気分になるからだ。文章は、ディレクションなく、次の話題にどんどんと進む。似たような経験を、並行して読んでいた『闇の考古学』でも感じていたが、それは話題が切り替わるときに、ちょっとしたディレクションがあった。『迷うことについて』はそれすらない。

本の中を迷うのだ。今、どういう文脈のなかにいるのか確認しようと最初は奮起するものの、いつのまにか確認する作業がどんどんと億劫になり、本の中をさまようように読んでいた。どこを読んでも、どこにいるか、わからないから、どこからでも読んでいけた。

わたしが好きなのは進むべき進路を離れて、自分の知っている範囲から出てみること、地図と合致しないコンパスの針や、出会った人のてんでばらばらな指南を材料にして別の道をみつけ、おまけの何マイルかを帰ってくることだ。

地図上の空白が残っていた19世紀には、スケジュールに追われることもなく、おかれた土地で生きる術を知り、歩き方を知り、天体や川の流れやいい伝えからまだ地図のない土地で進路を見出すことができた者にとって、一日や一週間くらい予定のコースを外れることはたいした事件ではなかったようだ。そして、歴史家アーロン・ザックスが探検家を評した文章がある。

探検家が目指すのはいままで行ったことのない場所ですから、いつでも迷っているようなものです。彼らは自分たちの居場所が正確にわかるとは思っていませんでした。とはいえ多くの者は装備の運用に熟達していて、十分な精度で進路を把握していました。自分たちが生き延びることができ、進むべき道がみつかるだろうという楽観的な態度こそ、彼らのもっとも重要なスキルだったのではないかと思っています

全世界を見失うがよい、とソローはいい、迷いながら自分の魂を見出すのだ、と。ただ、ここでは、少し方向性を替えて、探検家が熟達していた装備の運用や、そこから生み出した知的生産に思考を移していきたい。野外を探検することを科学した人物に、川喜田二郎がいる。川喜田はアカデミックな観点から、実験科学、書斎科学に加え、野外科学があると提唱し、その体系化を試みたのだ。


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