51:49

この1の差が大きい。

むしろ、この1を不可逆に生み出せたら、イノベーションなのではないか。

そうぼんやりとかんがえたときに、自分にできる「1」はなんだろうという問いが必然的に浮かんでくる。そんな問いが自然に浮かんでくるのは、何か、変化を生み出したいという昔からの衝動と使命感によるものだ。

ただ、「正直、そんなに心配しないでくれ」と自分が子どもだったら、思う。ほっておいてくれ、と。しかし、子ども過保護社会は徐々に加速し、親のレールは強固になっている。もちろん、ゲームのルールが洗練されていれば、レールが整備されていたほうが、ゲームに勝利する確率は高いだろう。

ゲームの勝利に価値があれば、レールをつくる仕事ができるし、レールの歩き方を教える仕事ができる。お金で手っ取り早く買えるようになっていく。お金を払う価値があるかどうか、費用対効果で見るようになる。いつの間にか、レールの買い物に熱中していく親たち、子どもたちにどんなレールをひいてあげたかを競い合う親たちができあがる。それが愛だと勘違いして。

そうは問屋は卸さない。やっぱり、その愛は孤立を生む。そして、集合行為問題の温床となる。愛が生む孤立、孤立が生む集合行為問題。ジレンマとはこのことだろう。そして、わかっていながら、愛を喰い物にするビジネス。

ファストは金になる、スローは金にならない。みんな待てないのだ、標準から下に外れると、マイナスをゼロにしようと努力する。標準を大きく超えると、もっと越えようと努力する。標準に支配される私たち。時間にコントロールされるわたしたち。誰かに決められたステップで、誰かに決められた順序で、誰かに決められたタイミングで、生きているのだ。

51:49の話はどこかに消えてしまった。もじゃもじゃに絡まり合っているからこそ、1進んだと思っても、0.9はどこかで戻っている。それならハッピーだ。1進んだとしても1戻っていることが多いのが現状だし、もっというと、1進んだ背後で、2戻っている可能性だってあるのだ。私達に見えるのは、1を進めた結果だけで、その後のしっぺ返しは見えにくいのだ。努力して、頑張った結果ばかりに光が当たるとそうなるのだ。

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