初心(うぶ)なはなし

ビジネスというもっともらしさに嫌気が指している。なんでもかんでも、ビジネスの土俵で、インパクトの土俵で、数字の土俵で闘うことはおかしいんじゃないか、と各地で蜂起が起こっている。言葉には表さずに、態度にも表さずに、気持ちを込めて仕事をしないという見えないところに表れている。

お金で買える学びはすぐに陳腐化し、お金で買えない身を挺した学びは心身に残る。とても一方的な仮説だけれど、それには「お気持ち」が関係している。お金で買える学びには、離乳食だ。咀嚼しやすいようにできている。自分にフィットしていなければ、クレームか他の商品に換える。そして、お金というものさしが不可避で付録としてついてきて、費用対効果ばかりに意識がむいて、言い訳を許し、お金をもっと詰めば、という「もしも」の可能性を考える。自分の中で、どんな学びが発生したのか、は二の次である。寄り道よりも、最短距離、お金を払って得ようとしたものが得られたかどうかである。

いっぽう、お金で買えない、むしろ積極的に選べていない、とりあえずそこにある状況での学びは、生野菜。美味しく食べるために試行錯誤の嵐である。自分にフィットするように設計されておらず、自分で工夫しないことには、何も身にならないわけだ。ときには腐ったものやまずいものがある。自分自身でレシピをつくり、道具を開発する必要があるのだ。そして、そこに意外さがある。もしかしたら、このレシピが好きだ、とか、この道具を使うのが得意だ、とか。当初の目的としていた学びからは寄り道なのだが、その寄り道に新たな発見があるのだ。

こういった測れていない寄り道の学びの価値を、しっかりと測っていこうという動きもきっとあるのだろうし、ないとしてもこれからきっと生まれてくるのだろう。だけど、測ることの怖さは、伸びたという結果が、変わらずに維持できているという結果が欲しくなることだ。いつのまにか、ものさしに乗っ取られてしまう。

だから、自分のものさしを、という風に考えたくなるのだが、そもそも、ものさしという危険なものを扱うリテラシーがないままでは「ものさし」を強く拠り所にして、正義にして、同じ過ちを繰り返すことになるのだろう。

自分のものさしの背後にあるのは、自分がどうしたいのか?というビジョンであったりするのだが、自分がどうしたいのか?を考えられること、それ自体がとんでもなく難しいことなのだ。それを考えるために、どれだけのお金が自己啓発に溶けているのだろう。

結局、環境だ大事といういつもの話に着地してしまいそうだし、自分と自分の目標に伴走してくれる誰かがいることがなによりも大事、という話になってくる。コミュニティであったり、自分のまわりにいる5人だったり。しかし、そういうものを求めて、土地を移動してしまえば、同質性の高いコミュニティが生まれていく。そして、同じゴールを追い求めている人たちばかりが集まり、競争になる。

結果として、ものさしをもって、自分はどうしたいのかを考えて、環境を変えていく。同じように考える人は一定数いて、同質性の高いコミュニティになり、より強烈な形でものさしが自分たちにしっぺ返しをしてくる。

自分がどうしたいのかを、一つのものさしで救い取れることはできないし、複数のものさしだって難しい。言葉にならないことのほうが多いはずだ。だけれど、数字や言葉という便利な道具に頼っていけば、だいたいはこのような顛末に陥るのだろう。

急がば回れで、自分がいる足元を耕していくほうが幸せに近づけるのかもしれないし、学びが豊富なのだろう。デフォルトで与えられた設定は、やはり大切なギフトなのだ。しかし、それは相対化できて、比較して、初めて気がつくものなのだろうか。それであれば、遅すぎるように思える。圧倒的かつ絶対的にそれをギフトだと思えるようになるにはどうしたらよいのだろうか?

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