20231129_エンドロールを最後まで流してから教室の明かりをつける

2時間半かけて通勤し、大学で授業。

1コマ目の授業ではは映画を鑑賞した。前回半分まで見たので、今日は後半からラストまで。
主人公は、殺人をしてしまった若者である。彼の殺人に理由はない。いや、あるようには見えるが作品では明示されないし、理由として私が読み取ったものもとうてい一般には理解されづらい、つまり情状酌量されづらい理由である。殺人シーンでも何度か踏みとどまってひきかえせる瞬間はあったはずなのに、乗り掛かった船、とばかりに彼はそれを完遂してしまう。殺人をした人とそうでない人には明確で不可逆な境界線がある。主人公がその境界線の「あちら側」へ行ってしまったことへのやるせなさにため息がでる。最後に感情を吐露する場面での「時すでに遅し」感にもため息をつく。かくして若者は死刑に処せられ、彼のために真摯に戦っていた弁護士がだれもいない平原の片隅に車を止め、「憎い……!」としぼりだすように叫ぶシーンで本編は幕を閉じる。
鑑賞が終わったあと、私自身すぐに切り替えられる気がせず、学生にも感情や思考を整理する時間を渡したかったので、エンドロールを最後まで流してから教室の明かりをつけた。それでもなお教室がショックとせつなさとやるせなさ、恐怖と悲しみがないまぜになったような熱気を帯びた重さに支配されており、私自身も言葉をつまらせながら改めてまとめと解説を行う。
私は、大学は圧倒的に理論が優勢になる場所だと認識している。だから感情に訴えかけるような講義をすることははばかられる気もしたが、あの熱を帯びた重たい空気を全員で味わい、共有できたことは後から考えればとても意味のあることだったと感じる。

昼休みを挟んで、もう1コマ授業。授業後、ひとりの学生と面談に近い雑談。

その学生の言葉や態度の端々から感じるのは自己憐憫に支配されている割に自分を大事にできておらず、衝動的に自分をいためつけて、その原因を他者に求めている、ということ。解決すら他者に丸投げしているわりに、他者にどうしてほしいのかを伝えようとしない、ということである。

一方で私は人間ひとりひとりの「なんとかしようとする力」を心底信じている。だからこそ本人からどうしてほしいかを言わない限りこちらから他者に踏み込んで助けるべきではないし、もしそういうことをしたら、それは他者の領域に入りすぎて配慮に欠ける行動である、という考えをもっている人間である。大学教員という立場であればなおさら学生からの動くのを待たざるを得ない。
横に座って話をききながら、その学生の他責の姿勢や自分から状況を変えようとしない姿勢に腹だたしさともどかしさが波のようにやってくるのを感じていた。

しばらくして、なんとか解決策のようなものが見つかり、解散。帰りの電車の時間があるので急いで支度をして大学を出て、駅へ。駅へ急ぐ道すがら、腹立たしさともどかしさの一方でその学生が膝を交えて話をしてくれたことに嬉しさや達成感を見出していたことにも思い当たる。
感情が一日のうちにほうぼうに動いたせいか、単に身体が疲れていたのか、駅のホームの自動販売機でボタンを押し間違えて「小岩井農園野菜ジュース」を買ってしまった。あわてて本来買いたかった「カロリミット」のりんご味サイダーを買って電車に飛び乗った。

帰宅して、夕飯はカルディで売っている素を使って、ビビンバ。
私と夫がコチュジャン的なソースを掛けていたのを見て娘は「それ、からし?」と。

数分後、「わたしのに、あまし、かけて。」
……あまし?

「もしかして、“からし”の反対で“あまし”、ってこと?」「うん。」
娘は世界を自由に泳ぐための手段として言葉をとらえているように見える。そして、言葉を使って世界を自由に泳げるようになるよう、覚えた言葉や思いついた言葉を使ってみることを辞さない。

食後、バタバタと片付けをして、10分だけ「カーザ・ヴェルディ」を読んでから布団に吸い込まれるように就寝した。






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