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【いそがしいとき日記】その34


緊急事態宣言が解除され、依然として感染病対策はとりつつもではありますが、生活の仕方がまたすこし変化していくような兆しがみえます。

演劇界も徐々に「劇場」を用いた発信の段階に踏み出していくような足音があちこちから聞こえます。これまでは「俳優各自の家からの配信演劇」がメインのチャレンジの場でしたが、「劇場からの配信」や「客席を間引いての公演」という動きが見えてきました。


だからって、6月からすっかり前とおんなじ状況に戻るかといえばそんなことはなくって、僕は相変わらずスケジュールが真っ白です。つまり、「劇場からの配信」も「客席を間引いての公演」も、ごく一部のトッププレイヤーか、自分でリスクを抱えた上で行動するアントレプレナー的演劇人のみがその環境に身を置けるという限定的なものです。

前者は、配信の設備や券売のところは特に自分でコントロールすることなく、自身のお芝居に集中できる立場で、後者は、「配信演劇」に付随するありとあらゆる物事の舵取りをする必要のある立場です。

でもこれは、俳優という人々の種類の中でも、きわめて両極端なものだと思うので、つまり周辺のグラデーションゾーンにいる大多数の俳優は、これからもしばらくは活動の場がないままに日々を過ごしていくことになるのだと思います。


ところで。

この「外出自粛」の期間は、とても興味深い発見がたくさんあった時期でもありました。

いろいろな俳優たちが自分の頭で考えて、それぞれ各自の特性を意識した「新しい発信」にチャレンジしていたからです。

その中には、「これまでもそれが得意だって知ってたけど、稽古場や舞台上の姿しか知らなかった。でもあらためてその技術に特化した動画見たら、いや、ベラボーにすげえじゃんマジで」みたいなものや

「これまで、そんなことができるなんて全っ然知らなかったけど、え、すごい、そんなことできたの!?尊い!!!」みたいなものがありました。なんだこの書き方。笑


そこから思ったのは、僕がここ数年おもに仕事の場として関わっていた「商業ミュージカル」の現場では、俳優たちはじつは、その人が持っている魅力の大半を発揮できていないのではないか、ということです。


つまり、ある演劇を作る現場、というのは、そこに集まる人々が同じ目標を目指している状態なわけです。ジャージーボーイズならジャージーボーイズを、ミス・サイゴンならミス・サイゴンを作るために、集まっています。

そして多くの場合、僕らに与えられている時間は、あまり潤沢ではありません。できる限り効率的に、寄り道をするにしても取捨選択しながら、作品を作っていかねばなりません。

そんな現場においては俳優もスタッフもそれぞれに、自分が考えた上でもっともベストなアウトプットを、稽古の時間に持ち寄ろうとします。

台本を読み、楽曲を分析し、役について考え、状況を理解しようとし、チームメンバーの特性を考えた上で自分がどんな価値を提供できるのかを一所懸命に考えます。これは、素晴らしいことです。

しかしこの「その作品のために一所懸命に考える」ことが、豊かな可能性を切り落としてしまうことにつながるのだなと、僕は思ったのです。


たとえば。

ジャージーボーイズで共演した太田基裕さんが、ご自身で作った音楽と映像をTwitterやファンクラブ向けサイトに掲載し始めたのです。

それを初めて見たとき、本当に驚きました。

「え!ちょっとまって!もっくんさん、こんなにカッコいいの作れたの!?」

確かに、ジャージーボーイズのときにも、演出で用いられた「カメラ」の扱い方がうますぎて、WOWOWとかの映像のプロの方が「もっくんの撮る映像すごい」って絶賛してたから、そういうセンスをお持ちなのは知ってたけど。

でも、ご自身でここまでの映像作品を作れちゃうってのは、こうしてじっさいに作ったものを見るまで想像もしてなかったです。いや、マジかっこいい。もっくん好き。


あと、稽古場でもめちゃめちゃ面白い人だなと思ってた可知寛子さんが圧倒的な面白YouTuberの魅力を爆発させていたり。

この動画とか、5万再生超えてますからね。やば。笑


で、思うんですけど、


こういう才能って!
現場では!
発揮されないじゃないですか!!!



だから、芝居を作る現場ってじつは、そこにいる人たちの能力のうち、じつは50%ぐらいしか活用できていないんじゃないかなあ。

もちろんね、目の前の作品を作り上げるために「最短距離」を通ろうと思ったら、稽古場で試すアウトプットはある程度、優先順位を決めて取捨選択する必要があります。だから、「めっちゃカッコいいトラックを作る」とか「面白い動画作れる」とか、現場で「はい稽古します!」ってときにはほとんど問題にされないわけで。

そういえば以前出演した作品の共演者に「プロのカメラマン」っていう方もいたなあ。でも、お芝居の現場ではその人のプロカメラマン的資質は特に重要とされないわけです。


しかしながら、これは僕の浅はかな考えなのかもしれないけど、そこに集まる人たちのいろんな視点が盛り込まれた方が、面白い作品が作れるんじゃないのかな、って思うわけです。

だから僕としては、この「外出自粛」の期間に、「え!?この人、こんなことまでできるの!?」っていうのがいろいろ可視化されたっていうのは、今後の作品づくりに於いて非常にポジティブな出来事なんじゃないかなって思うのです。


きっと、この期間に新しいチャレンジをはじめた俳優はたくさんいるし、自分の得意分野にさらなる磨きをかけた俳優もめちゃくちゃいるし、昔やってたけど遠ざかってたことに再度向き合ってみた俳優もワンサカいると思うんですよ。

その結果、これから先に作られる作品に盛り込まれるアイディアや要素が、より多様化していったらめちゃめちゃ面白いんじゃないかなって思っています。


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すごく共感したツイートがありました。

この「男性基準」で褒めたり、評価したりする表現の仕方、僕も「居心地悪いな〜」って思ってるんですけど、そういう僕でもときどき気を抜いていると使いそうになっちゃうときがあるから難しいな、と思います。

ときどき人との会話の中で遭遇して「んーーー」って思ってるのは、女性に対する「男っぽい」という表現。

これ、特に「さっぱりした性格の女性」「細かいことは気にしない性格の女性」に、肯定的に使われること、あるじゃないですか。彼女はサバサバしてて男っぽいから付き合いやすい、みたいな。


いや、難しいなって思うんですよ、この「男っぽい」っていう表現。

女性が自身のことを「私、男っぽいからさー」って表現することとかもあるじゃないですか。だから、うーん、どうなんだろうって思うんです。いいのかな。いい、のかな。って。

だって、「男」にもいろいろいるわけですから。

ウジウジした男性も、細かいことが気になって仕方のない男性も、湿っぽい男性もいるわけですから。そういう人たちは「男らしくない」とか言われるわけですよ。

どちらかといえば僕も世に言う「男らしくない」に部類される男だと思ってるんですが。

でも僕は男だし。


あと、これは友人のフラメンコ ダンサーと以前話して、ぜんぜん答えがでなかったんですけど。

踊りを評して「男らしい」とかっていうこと、往々にしてあるわけです。

力強い踊りや、輪郭が濃い踊りや、決然とした踊りを踊る「女性ダンサー」に対して、「あの人の踊りは男らしくて素敵」とか言うわけです。ここでの「男らしさ」は確実に称賛の意味です。

また別の場面では、線が細かったり、決めが弱かったりする踊りを踊ったときに、先生や先輩から「もっと男らしさのある踊りを目指しましょう」みたいなフィードバックがされたりする場合もあるわけです。女性の踊り手に対しても。

ここでいう「男らしさ」っていうのは、象徴的な力強さや凛々しさみたいなのを内包した表現ですよね。

歌でもあります。「あの人はソプラノだけどドラマティックで、男らしい歌を歌う」みたいな。


男とか女とか関係なく「パワフルで決然としたパフォーマンスが素晴らしい」でいいじゃん、とか思うんですけどね。

でもその反面、「男らしい踊り」「女らしい歌」という言い方で伝わってくる、微妙なニュアンスがあるっていうのも理解できるわけです。

しかしだからって無批判に「男らしい」「女らしい」という言葉を使いまくって、ジェンダーバイアスを再生産していっちゃうってのは、僕は違うなーとも思ってて。


ここ数日、そんなことを考えています。




読んでくださってありがとうございました!サポートいただいたお金は、表現者として僕がパワーアップするためのいろいろに使わせていただきます。パフォーマンスで恩返しができますように。