文学と身体。
こんにちは!山野です!
演劇人の端くれとして、目の前にある戯曲や台本をどう読み解くかというのは永遠の課題というか、僕としても職業的宿命として日々取り組んでいる最中であります。
演劇人という言い方は少し気恥ずかしいので、職業俳優ぐらいがちょうどいいかなーとも思いますが、いずれにせよ「演劇」というものが自分の人生における重要な支柱のひとつというのは間違いないです。
東西さまざまな指南書で「演劇の台本とはこう読み解くのだ」ということは書かれていまして、また、いろんな演出家のワークショップでもそれぞれの方法論が教えられていたりします。
「演劇」とひと口で言ってみても、その形式は多種多様でありまして、リアリズムもあれば不条理主義の戯曲もあれば、叙事詩劇、神秘主義、歌舞伎、能楽、京劇と、ありとあらゆる表現形態があります。
そのような多様な「演劇」を、ひとつの方法論だけで読み抜くというのは土台無理な話なので、演劇に携わる人間はいろんな方法論を自分の中に蓄積して、戯曲に合わせて、あるいはプロダクションに合わせて、蓄積されてる方法論をいくつか引っ張り出して組み合わせて、その瞬間に適切な「道具」を作るようなやり方でお芝居に取り組むのだと思います。
演劇というのはその設計図を「戯曲や台本」という、書かれた「文字」に依存していますが、それが舞台上に立ち上がるときには俳優の「身体」に依存し直すという、二段階の発露を経る不思議な芸術であります。
演劇というものはその性質として「文学」の領域と「身体表現」の領域というふたつが多層的に重なり合っているのですね。
僕は俳優という実演家なので、その仕事としては「考える」ことよりも「やる」ことの方が役割として重要です。どれだけ考えても、舞台上でのアクションつまり「やる」ことができなければ、俳優としての価値はとても小さなものになってしまいます。
これまでの演劇の歴史を振り返れば、重要な演劇理論をまとめ上げてきたのは主に演出家と劇作家で、俳優発信の理論というのはそこまで強い影響力を持っていない。
なぜならば、俳優の仕事というのはどこまでも「身体」から逃れられないからで、身体から逃れられない以上、俳優の技術や思考というのはその人固有の身体に強く依存するしかないからでしょう。
あるひとりの俳優にとって最適な演技アプローチが、ほかの俳優の身体にとってベストであるということはほとんどないと言っても過言ではないはずです。
「身体」のことだけをやっていれば俳優は務まるのかといえば、本当のところ「あるところまではそう」と言えるような気もします。どこまでも実働部隊に徹する。演劇の前線で身体を動かし続けることで演劇自体を駆動させていく。
それができればまず、俳優としての存在価値というのは担保されるような気もします。
ただ、俳優にもいろんなタイプがいて、もちろんそれは「人間にはいろいろなタイプがあります」と言うのとおんなじなのですが、僕は特に演劇の「文学」の部分も大切にしたい種類の俳優です。
自分の心がどう感じ、自分の身体がどう動きたいのかという主観的な作品の読み解きと同等に、その戯曲自体が何を描いていて、その戯曲構造がどんな演技表現を求めているのかというのを考えるのが楽しくて好きなのです。
言葉が持っている質感について考えたり、並んだ言葉同士の間に張り巡らされた緊張感について思いを巡らしたり、そういうことが好きなのです。
書かれている言葉は「文学」の領域に属しますが、その言葉がセリフになった瞬間に「身体」の領域とも重なり合います。ただ、その時の言葉は完全に「身体」の従属物になるわけではなく、文学としての色彩や質感や奥行きも保ち続けるのです。
書かれた言葉が身体を通して音声化される。平板な情報だったものが肉声によって立体化される。そこに生まれる多層性を、簡略することなく、毎公演紡ぎ続ける。それが、僕が目指したい俳優の姿なのかもなと、さいきん思うようになりました。
いま取り組んでいる作品は、原作が当時大ヒットした小説というだけあって、テーマも物語もそこに使われる言葉もとても複雑です。さらに、小説自体がかなり実験的な構造で書かれているもののため、そこから翻案された台本自体も詩的な構造を持っています。
この台本をシンプルな「行動指示書」として読むこともできるわけですが、もう少し注意深く「文学」の比重を多めに読むことの方が、僕には楽しく感じられます。
その視点からこそ、より確信の強い演技者としての身体が導き出されるような予感があります。
俳優の身体を支えるもののひとつは、文学なのだ。
そんな思いがこの頃の僕のテーマです。
読んでくださってありがとうございました!サポートいただいたお金は、表現者として僕がパワーアップするためのいろいろに使わせていただきます。パフォーマンスで恩返しができますように。