芸術にたずさわる者こそ子どもの可能性を信じよう

たまに、小学校や中学校へ出張授業しにいったり、高校生相手に合唱を教えることがあります。

そうやって学校へ行って感じるのは「先生って本当に忙しい仕事なんだな」ってことです。

授業の準備、部活のこと、担当する学校運営の係の事務仕事、保護者への対応、教育委員会に出したりする書類の処理、子どものケア…

やることは目の前に山積みで、あっちにこっちに先生たちは目まぐるしく動いてらっしゃいます。

そうやって粉骨砕身、学校教育の現場にいてくださるのはとても尊いことですが、だからこそ見えなくなってくるものもあるのかもしれません。

たとえば、音楽のワークショップを子ども相手にする場合、「歌うこと」がテーマだったら、ちゃんと声を出して歌ってるかどうかが評価基準になってしまいがちになります。どうしても。

でも極論、大人になったときに全員が朗らかに歌えなきゃいけないわけじゃなくて、だから歌うのが苦手っていう子がいてもぜんぜんいいわけです。

けれど、僕らみたいなアーティストを学校に呼んでくださる先生はみなさん子どもたちへの教育に熱心で、だからこそ「ちゃんと歌わないと困る」と思ってしまいがち。

でもね、僕としては、全然それでいいんです。ほんとの話。

そのワークショップを通して、歌うことは恥ずかしくて上手くできなかったかもしれないけど、

実は静かに心が動いてたとか、

あとで書く感想文のクオリティがすごいとか、

そこで得たインスピレーションを絵にしてみたとか、

それこそ家に帰って家族に「こんなことをしたんだ!」と臨場感たっぷりに話せたとか、

あるいはその恥ずかしかった経験を経て人前に出ることがほんの数ミリだけ怖くなくなったとか、

そういう、「歌おう!」というワークショップの時間のなかだけでは見えてこないような受け止め方の、そのすべてが素晴らしいのです。

芸術家やアーティストというのは、表現することのスペシャリストです。自分のなかに「伝えたい」という欲求を強く持っていて、それを自分の身体や感性にとってぴったりとくる方法でアウトプットしているわけです。

僕にとってのアウトプットの方法は、歌やお芝居や、ときにはこうした文章だったりします。

僕がワークショップへ行くときは、たまたま扱うのが「歌」という表現方法なだけ。いちばん大事なのはその方法を上手くやることなのではなくて、「伝えたい」という気持ちや「よくわからないけどなにか湧き上がってきた」という感情を、「それは君が感じた、君固有の感情で、それがとっても大切なものなんだよ」と受け入れてあげることだと思うのです。

ただ、それって、評価基準に照らし合わせて成績をつけるとか、全員が静かに授業を受けられるような学級運営をするということとは別の観点だったりします。だから子どもたちに対して、全ての感じたことが素敵だ、と全力で肯定してあげるのは、外部からきた芸術家が担える特権的な役割だと思うのです。

あと、子どもに対して「表現のなんたるかを教えてあげよう」みたいなのはダメです。彼らは僕らなんかよりも柔軟で突飛な発想を持っています。クリエイティビティの塊みたいな存在です。僕らは彼らから学ぶことが本当にたくさんあります。

僕たちにできることは、表現の「やり方」を与えてあげることだけです。

その「やり方」をふまえて、どのように表現をするのかは、子どもたちが自分で決められます。

まあ、毎日子どもに触れてる親御さんとか先生たちは、それどころじゃないのだろうこともわかってます。

だからこそ、僕らみたいなたまに出会う人種が担当できる教育の領域もあるのだと思います。

話変わりますけど、相手が子どもだからって、可愛くてブリブリしてて、「なんとかかんとかでちゅよーーー」みたいな妙に子どもじみた接し方をするのはサイアクです。

僕は自分が子どもだったころ、自分を子ども扱いしてくる大人の話はほとんど聞いてませんでした。だってその人は僕をみてないから。僕の外側にある「子ども」って部分だけをみてコミュニケーションしてきてるわけですから。

彼らは僕らの思っている以上に大人です。

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そんなことを最近感じました。


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