感覚的な言葉を話せる人に寄り添いたい。


整然と、論理的に、
自分の思いをササッと言語化できる能力を持ってると
社会的には「すごい!えらい!」ってことになってるけど
この能力って、「人間として、マジで絶対的にすごい」
ってことではないと思うんだよな。

組織の中での会話や、議論の場では
自分の思いや感じたことや、あるいは自分の得たい利益について
論理的に話せるっていうのは確かに有利な能力なのだろうけど
「論理的な言葉で話すことこそ至高」みたいになっちゃうと違うと思う。

たとえば、話そうとすると言い淀んでしまう人、言葉が詰まる人、
自分の状態を表す適切な言葉を見つけるのに時間がかかる人がいるとして。
上の論理だと、こういう人たちは、スムーズに論理的に話せないから、
ぜんぜん能力のない人たちじゃん、みたいになっちゃう。
口のうまい人に、ただそれだけの理由でマウンティングされたりしちゃう。

でももしかしたら、論理的な言葉をうまく紡げない人たちのなかには
論理的な話し方が得意な人たちよりも、
世界からたくさんの情報を得ている人がいるのかもしれない。

その、世界から受け取る情報の多さが、本当に洪水のようで、
それをうまく、早く、言語化できないだけかもしれない。


流れるように喋れないあの人が、
じつはものすごく色に敏感で。
僕が見る紅葉の景色よりも、100万倍鮮やかな色の世界を
見ている可能性っていうのはある。

いつも「考えがまとまらないんだけど」っていうあの人が、
じつはものすごく音に敏感で。
同じ空間にいるのに、周りからの音の影響を
自分の100万倍強く受けているのかもしれない。

いつも言葉が詰まってしまうあの人が、
じつはものすごく人の状態の変化に敏感で。
向き合って話している僕の、声や、言葉や、表情や、居方の変化を
すごくすごく敏感にキャッチしてしまって、
そういうのに鈍感な人の100万倍、
相手のことを気遣ってるのかもしれない。

でも、そういった人たちの喋り方は、
世間のいう「論理的で整然とした話し方」とは
月とスッポンほども離れているので、
「もっと人に伝わるように話さなきゃダメだよ」とか
「もっと本を読んで論理的思考を鍛えた方がいいよ」とか
「何が言いたいの?ちゃんと整理して話してよ」とか
そういうことを言われちゃったりする。

そのことに、傷ついてたりするかもしれない。

もし、そうだとしたら、僕としてはとても切なくて。

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世の中にはたぶん、大きく分けて2種類の言葉があって。

ひとつは、論理的な言葉。

もうひとつは、感覚的な言葉。

で、社会の中では特に、「論理的な言葉」が評価される。
逆に「感覚的な言葉」は「感情的な言葉」と言い換えられて、
忌み嫌われたりする。「スマートじゃない」って。

終身雇用で、結果を出してこそみたいな、旧体制然とした組織では
たしかに「論理的な言葉」を用いることは重要なスキルなのかもしれない。

でも、それを日常生活の中に持ち込む必要はぜんぜんないわけで。

さらに、これからの時代は
いままで以上に「感覚の時代」になるはずだと僕は思ってて。
だから自分の心や身体について、
その感覚に直結した言葉を使える能力こそが
すげえ価値を持ってくるはずなのだ。

楽しいときに「楽しい!」って言えるとか、
悲しいときに「悲しい」って言えるとか、
美しい紅葉を見たときに
「すごい。言葉にしきれないほど、すごい。」って言えるとか。


感覚的な言葉は、自分について嘘をつくことができない。
だって、感覚だから。

痛いと思ってるのに、「痛くないよ」って言えるのは
そこに理性を介入させているから。
これはもう、論理的な言葉の範疇。

痛いときに、すぐに「痛い」って言えること。
恥ずかしさとか、プライドとか、そういう理性の問題は置いておいて
自分の感覚に嘘をつかずに「痛い」って言えること。
こういう能力が、これから先の時代に価値を持つ。

足が痛い、歯が痛い、腰が痛いもそうだけど、
たとえば、「心が痛い」とかも。

同時に、「論理的な言葉」を使うことが得意な人たちは、
「感覚的な言葉」を使うことが得意な人たちが喋るのを
"しっかり聞く"という能力を身につける必要がある。

人の話をしっかり聞くって、子どもの頃からできるようになりなさいって
言い続けられてきたことなのに、とっても難しいことだと思う。

相手のことをしっかり受け入れて、
相手や相手の言いたいことを決めつけないで、
相手が喋るテンポにちゃんと寄り添って、
その言葉の向こうにどんな感情があるのかを読み取って、
しっかり、相手の話を聞く。

これは、旧体制のなかで論理的な言葉だけを使うことに馴らされてきた人が
次の時代を生き抜くためにぜったいに必要な能力だと思う。

何度もいうけれど、これからの時代は「感覚の時代」になるから。


てか、そもそも、時代とかの問題を別にしても、
人間はもともと動物で、動物は感覚の生き物で、
その感覚で生きるっていう「身体性」は忘れないほうがいいのです。
これは僕が、身体表現を主に扱う表現者だから思うことかもしれないけど。


社会的な強者が、すなわち優れている、ってことじゃないんだと思う。
僕はそのことをいつも忘れずに、人の話をしっかり聞いて、
生きていきたいなーと思います。




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