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常識と可能性


こんにちは!山野です!


とても当たり前のことなんですが、僕らの前には「可能性」はいつでも開かれているんですよね。


もちろん、その人の生活が社会のどの階層に属するかによっては「いやいや、そんなことないから!」という状況もあります。

たとえば僕が急に「ドイツの森の中の古城を買いたい」と思っても、それってほぼ不可能というか。あるいは「アメリカ大統領になりたい」と思ってもかなり実現の可能性は低いです。

でもどちらも絶対に無理ではないし、それを明日実現しようというのは限りなく不可能だけど、30年後とかだったらもしかしたらなんとかなるかもしれない。

どれほど突拍子もないことでも、一応可能性は開かれている、ただしそれが叶うという確証もないけどね、というのが本当のところかと。


そういう極端な例は別にしてですが、意外と生活の中で僕たちは、開かれているはずの可能性を自分で閉ざしてしまいがちです。

自分の身近なことでしか語り得ないことがあるので、僕のいちばん身近な演劇について書いてみます。


ところで、世間一般の方々にとって俳優というのはどのような存在に見えているのでしょうか。

もしかしたら、得体の知れない、社会の倫理が通用しない、自由人のような見られ方もするのでしょうか。

たしかにそういう側面もないとは言えません(一概には言えないけど)が、案外常識に縛られて生きているところもあります。この「常識」が、演劇界と一般社会とでは多分にズレているのでなんとも言えないのですが。


演劇をするときの「常識」って案外強くって、舞台上ではこう立つべき、とか、セリフはこういう風に言うのだ、とか、相手とお芝居するときはここを気をつけるのだ、とか、だいたいこういう流れならこういう芝居が正解だ、とか、明文化されてないコードがたくさんあります。

演劇という営みには「社会の常識を疑うきっかけになる」という機能も含まれていると僕は考えているのですが、存外、その演劇の内側にいる僕たちの方が「演劇界の常識」に絡め取られている、みたいな構図は多くの場面であります。

僕も、「こうなったら当然こうだろ」みたいな紋切り型の考えを無批判にお芝居に持ち込んでしまっている自分に気づいて、おや、いかんいかん、と心の中で冷や汗をかくことが多々あります。


演劇の空間というのは(ある種の伝統芸能を除くと)、なにも決まっていないところからスタートすることが前提です。なにもない空間から立ち上がってくる。

そこではなにをしても自由のはずですが、制約のない自由というのは人間にとって居心地の悪いものですので、僕たちは無意識にそこへなにがしかのルールを持ち込もうとします。

ルールというのは「それに従えばとりあえず間違いのないこと」なので、そこに吟味的な思考はあまり介在しません。

この「吟味的な思考が介在しない」というところが厄介で、こういう行動が増えていくと、自ずと可能性が閉じられていく方向へ物事が進んでいきます。

吟味的な思考、って、なんかわざとらしく難しく書いちゃいましたが、前提を疑って考えることをしない、ということです。

日常を送る上でいちいち色んな事柄の前提を疑ってたら生活できなくなっちゃうので、しょっちゅうそんなことをする必要はないですが、演劇というのは「日常生活」とは違う場なので疑ったり考えたりすることも歓迎されるはずなのです。

でも案外、僕たち俳優も、考えることを手放してしまう瞬間って増えていくんですよね。でもそれは自分から、自分の可能性を喜んで手放すことと同義です。


「常識で考えたら、ナシなんじゃない?」と反射的に思ってしまうことでも、いったん常識という枠組みを外してみると案外アリの可能性が浮上してきたり。もちろんそういう時には、人を傷つけないとか、最低限のモラル(これも局所的な常識の一例ですが)に従うことは必要だけれども。

アリとナシの境界線を見極めて、ギリギリを狙っていくようなスタンスが、自分の可能性を広げる一助になったりするよなぁ、などと考えました。


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