歌いたい心を殺された人たちへ

自分は音痴だから、と、歌うことを尻込みする人がいます。

音を外すのは恥ずかしいからと、自分をルールでがんじがらめにして、自由に歌うことができない人もいます。

歌の専門家の端くれとして、僕はそういう状況がとても切ないのです。

たとえば小学校の音楽の授業で。発表会の前。どうしてもハーモニーのなかの音がとれない男の子に先生が、「◯◯くんはここ、歌わないで休んでてね」と言う。

たとえば高校の合唱祭のとき。声が小さくて歌に自信がない女の子に同級生が居残り練習を命じて「もっと大きな声で歌って!」と言う。

たとえばカラオケ番組を見て。高機能の採点機に対して、正確な音程で歌い続ける歌手たちをみて「歌を上手く歌うには、正しい音程が出せなきゃダメなんだな」と思い込む人がいる。

そういったことが気にならずに、歌うことを好きで居続けられる人もいるでしょう。

でも、そうでない人もたくさんいるはずです。

先生の、親の、友達の、先輩の、後輩の、何気ない一言で、歌をうたうことが怖くなったり、正しく歌うことこそ歌なんだと思い込んでしまったりする人。きっとたくさんいるはずです。

何気ない一言を放った方からすれば、そんなに重大な指摘ではないと思っていることがほとんどです。

音を外さない方がいいのは音楽のルールからして確かに当たり前のことですし、大きな声で歌えた方が表現の幅が広がるのは事実です。

でも、これ、大事なことなんですけど

音程が外れたら、声が小さかったら、それは歌じゃない、なんてことはないのです。

ピッチやリズムや歌詞や表情のつけ方が、たとえ楽譜と違っていたって、歌ってる本人の「歌いたい!」という気持ちさえそこにあれば、それは紛れもない"歌"なのです。ほかのなにものでもない。

その気持ちを否定することは、誰にもできないはずなのです。

逆に言えば、正しい音程、正しいリズムで、どれだけいい声で歌えていても、そこに「歌いたい」という気持ちがなければ、それは、きっと歌ではないのです。

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まず原則として、自分は音痴だと認識してる人や、人から音痴だと言われた方の99%は、音痴ではありません。耳が聞こえるにもかかわらず、先天的に全く音感がないという人間はほぼ存在しないといっても過言ではないです。

なぜなら、僕らは言葉を話すからです。

子ども時代、大人のしゃべる言葉をキャッチして覚え、それを自分の口で再現することができているからです。

話している人の言葉のニュアンスを聞き取り、その人がいま嬉しいのか、悲しいのかを、理解できるからです。

音の高低やリズムを聞き取る音感は、聴覚という機関に備わっているのです。

ただ、その精度に差がある、ということ。

でもこの精度は、訓練次第で向上します。

たとえば、ある分野の職人が、指先の感覚で金属板の傷や反り、紙の1/1000mmという厚さを検知できるとします。僕らにはもともと、指先で物体の凸凹や質感を認識する能力が備わっています。その能力が極限まで発達すると、そういった職人技の域になっていくのです。

あるいは、自分の部屋にいたときに停電がおきます。真っ暗ななか、僕らは手探りであたりを探り、手で触れたものが一体なんなのかを理解することができます。テレビのリモコンなのか、エアコンのなのか。懐中電灯なのか、隣の部屋へのドアなのか。これはふだんから、自分の部屋に何があるのかを熟知していて、視覚が機能しなくても、触覚だけでその記憶と触れた物体を結び付けられるからです。

音感も、これと同じことです。

僕たちが聴覚を使って生活をしている。

道を歩いていて、後ろから車がくることが音でわかる。遠くで犬が吠えていて、どうやら何かを見て興奮してるらしいと推測できる。救急車が通り過ぎるとサイレンの音が低くなると知っている。

この、平凡な能力。けれど素晴らしい能力。

こいつの精度を、上げてあげればいいのです。

もちろんそれには訓練が必要です。プロフェッショナルな音楽家になるためには、高度なソルフェージュ的な専門教育が必要かもしれませんが、ただ自分が伸び伸びと歌えて、少しだけ上手くなりたいという目標であれば、毎日意識的にいろんな曲を聴いてみる、ということでもだいぶ鍛えられるものです。

音痴と呼ばれる現象には、もうひとつ原因があります。

音を耳で聞き取ることはできていても、声帯を中心とした発声の筋肉帯が上手く機能しなくて、イメージしている音が出せない、という状態です。

そう。声を出すことは、筋肉の動きを伴います。

この筋肉たちを自分のイメージ通り動かす能力が高ければ高いほど、精密な音程で歌うことが可能です。

この点は、スポーツなんかと近いです。ゴルフで、打ち筋は見えているけど身体の使い方がふさわしくなければパッティングを外すとか、そういうのと一緒です。

意外とこの、「音感はあるのに声を出す仕組みのコントロールが苦手で音を外しちゃう人」は多くいるので、音程やリズムを正しく歌うのが苦手だなーと思う方は、自分が聴覚と声を出す仕組みのどちらでつまずいてるのかを観察してみると良いと思います。

簡単な診断方法があります。

何か気に入っているCMソングを思い浮かべてください。それを歌ってみて、仮に音がずれてしまうとします。世に言う「音痴」の状況です。

次のステップとして、ピアノでそのCMソングのメロディを弾いてみてください。スマホのピアノアプリでもいいです。一発で弾けなくても平気です。何回チャレンジしても構いません。

もしこれで思い浮かべたCMソングを再現できるようなら、あなたにはちゃんと音感があります。ただ、その音を声として出すための筋肉帯のコントロールが苦手なだけです。

もし、どうやっても再現できなかった場合。音を聞くという能力の精度が低い可能性があります。でも、音を意識的に聞くという体験をたくさんすれば、この精度は向上できます。

このように、世の中には、本当の意味での「音痴」という人は、ほとんどいないといっても過言ではないのです。

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足の遅い人がいるとします。

その人が、走っているとします。

それを見て、「あなたは足が遅いから、それは走ってるとは言わないよ。もっと早く走らないと走る資格はないよ」と言うでしょうか。

そんなこと言う権利は誰にもありませんね。

たとえほかと比べてどんなに足が遅くても、本人に走りたいという気持ちがあって、足を進めているのであれば、それは走っていること以外のなにものでもないはずです。

そうやって走っていることを本人が楽しんでいるのなら、それより素晴らしいことはあるでしょうか。

たとえ、義足でも。

たとえ、車椅子でも。

本人が「走りたい」と思い、前へ進むなら、それは走っているということ以外の、なにものでもありません。


歌だっておなじです。

たしかに、より上手く歌うためには、あるいは、プロとしてより高度な表現をするためには、正しい音程や正確なリズム、明瞭な発音、無理のない発声が必要です。

けれど、歌にとってもっとも大切なのは、本人の身体のなかから湧き上がってくる「歌いたい!」という気持ちです。

もし、過去の、なにかのきっかけで、自分の「歌いたい」という気持ちに蓋をしてしまった人がいるとしたら。

なにかのきっかけで、「歌いたい」という心を殺されてしまった人がいるとしたら。

聞いてほしいことがあります。

僕は、あなたの歌が大好きです。

この文章が、すこしでも救いになってくれたらいいな。

すべての人の、すべての「歌いたい」という気持ちが受け入れられる世界になること。

これが、音楽と歌を愛する僕が、望んでいるものです。


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