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壊すことを許された美。


僕が演劇なりクラシックコンサートなりミュージカルなりの舞台芸術が好きなのは、まあ、そりゃいろいろな理由があるわけですが、その大きなもののひとつに

その空間を壊す選択肢が観客に常に与えられているから

というのがあります。


ライブの舞台芸術というのは、悪意があろうとなかろうと、客席に座っている私たちの行動如何でいくらでもその芸術性や神秘性を破壊することができるんですよね。

それは例えば、静かなシーンで携帯電話を鳴らすとかいうことや、楽曲の終わりの残響が美しい瞬間に暴力的な大声で「ブラボー!」と叫んだり、みたいなことだけではなく、

究極的にいえば「上演中に観客が舞台上に乱入する」みたいな、かなり直接的な方法でも壊してしまえる可能性を「排除していない」ということです。

上演中の観客は客席に縛り付けられているわけでもなく、舞台と客席が檻や透明のガラスで明確に区切られているわけでもなく、そうしようと思えば観客は自分に割り当てられた座席から立ち上がり、大暴れをすることも大声で喚き散らすこともできるわけです。

でも、多くの観客がなぜそれをしないかというと、なんとなくその場が共有している「モラル」とか「ルール」といったものに従って、ある種、出演者やスタッフの作り出す劇世界の力学に協力することでその劇場空間を共に創出しようとしているから、です。


絵画だって彫刻だって、そうしようと思えばそれ自体を壊すことができますが、その芸術表現を成立させるために空間を共に維持するという作品と観察者間の共犯関係は、舞台芸術ほど強固に機能しません。

ある種の舞台芸術の成立のためには観客の沈黙が不可欠ですが、モナリザの前で鑑賞者がどれだけ大声で騒いだとしても、モナリザはモナリザとしてその絵画性を失うことはありません。

僕は、観客の沈黙を伴う観賞を前提としている舞台芸術が持っている、「いまここで僕が騒いだらこの作品は台無しになる」という緊張感がとっても好きなのです。

正直に言えば、目の前で上演されているお芝居を破壊する想像を何度も頭の中で繰り返したことがあります。けれど、その行動をじっさいに実行したことは一度もありません。

とはいえ僕には、「その上演空間を壊す選択肢が常に与えられている」のです。ただその力を行使しないだけで。


ところでこのあいだ、赤坂にある老舗和菓子屋の塩野で、牡丹という名前のお菓子を買って帰ってきました。

その名の通り牡丹の花を象った練り切りで、花弁のひとひら、そこに走る筋の一本まで緻密に繊細に表現されています。きっと、木型で抜くタイプの作り方で、その木型自体も貴重な年代物なのでしょう。

これはまさに、芸術品だと思いました。美しいものを見たときの、比喩としての形容ではなく、まさに芸術そのものだと思ったのです。

さて、舞台芸術の鑑賞者はその振る舞いによってはその芸術空間自体を直接的に壊すことができます。絵画や彫刻といった芸術も、やろうと思えば物理的にその作品を壊すこともできる。

でも多くの場合、その破壊行動は実行されません。目の前の芸術を守りたい気持ちがあったり、あるいはもし壊してしまったときの刑罰や損害賠償のことを考えるとやりたくてもできない、というのもあるかもしれません。笑

その点、あのまさに芸術であった和菓子の芸術性には非常に興味深いところがあります。

「破壊されることが前提」として作られているからです。


和菓子は、それがどんなに美しくとも、最終的には食べられてしまいます。当然です、お菓子ですから。食べずにとっておきたいと思ってもその美は破壊されます。腐敗やカビなどによって。

フォークなり楊枝なりで切れ目を入れられるもしくは前歯で噛み切られることが折り込まれた上で、あの美しいデザインが職人の熟練の技術によって具現化されているわけです。

いわば、「壊すことを許された芸術」です。

あまりにも美しい和菓子に楊枝のひと筋を入れるとき、僕の身体はとても強い緊張を覚えました。まるで、目の前で静かで美しい舞台芸術が上演されてるときに「やめちまえー!」と叫ぶことを想像するときのように。


和菓子の良いところは鍛錬された職人の技術が生み出す美を、とても安い値段(ひとつ300円とか500円)で、日常のなかに組み込めることだと思います。あと、美味しい。

僕は、人間のなかには誰しもなにがしかの「破壊欲求」があると常々考えているのですが、まさに和菓子はその「美しいものを壊す」ことすらも許してくれる、とっても懐の深い美的表現なのですね。






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