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PNSEとは


瞑想を極めた先にあるもの


PNSEというワードを見かけました。


”persistent non-symbolic experience”

といい、「継続的非記号体験」と訳されています。

一般的にはそうですけど、直訳すると

「持続的な象徴的でない経験」

となりますね。

どうやら宗教上の「悟り」の概念を説明する言葉のようです。
「自我を超越した意識状態」なるものを明確に言語化することは不可能なようですね。



そりゃね。

あー、PNSEね。
意識をね、ちょいと引き上げるのよ。
ちょっとでいいの。
そうすると、釣り針にかかった魚みたいに
「ぐぃーん」
と芋づる式に引き上げられて、途端に青空。
燦々と日光が降り注ぐ大気に突然放り込まれるような感じ。


なんて言っても理解されないでしょう。

kakaoはPNSEを知っているのか?となりますけど、んなもんとっくに分かってますよ。

正直、この程度の認識を得たからと、途端に悟りきったような顔をするのは甘いです。
更にその先を行く。
こんなのはほんの入口、中途の祖ですわ。

しかし、この感覚を全ての人間が知っている訳がないのですね。
PNSEって凄いことじゃないかな!?
と、なるのは当然です。


自分がその境地に至っているのにも気付かず、高まってきた気を自らのものにしようとせん人を何人も見てきましたが。

その時点では言語化には至らないようですね。
感覚が先に来て、それから随分経ってから言語化される。


健全ルートですよね。

便利な有為と無為の表


無為を有為に変換する際に、必ず通らねばならぬ道です。

心所法への到達を言うのかな。
一回程度の到達で満足してはいけませんよ。

PNSEを何回も起こさないと、真の意味で地頭が発達しないようになっているのだと思います。



私はそういった光景を目にする度に
「あの人、カタルシスを得ているなあ…」
と冷静に静観するだけに留めてきました。

そこで
「ちょいとあなた! 今高まってますね!」
なんて言うのもどうかと思うでしょ?

「なにを知ったような口を…。エラソーに。お前程度に何が分かるっていうのよ」
と相手の方が思うのは当然です。

実際、そういった失敗を何度も私は繰り返してきました。
空気読めなかったですね。
そのつもりは一切なくても、結果的に無自覚で知識マウントを取る形になってしまって、めっちゃ嫌われましたわ。


そりゃそうですね。
こういうことを言って良いのは
「教祖様」
だけです。

パンピーにしか見えない人間が、おいそれと軽々しく他者の誇りに思う領域に入り込むようなことがあってはならないのです。
崇拝心というチケットを販売しないとね。


自分で言うのも難ですが、私はちょっと異質なのです。


25歳くらいのときかな。

「kakaoさんって、達観しているのね」
と、言われまして。
思いもよらぬその言葉に、少し揺れました。
私はその方を密かに尊敬しておりましたので、お世辞でない本気の褒めみたいだ、と感じて照れ…。

普通にしてきたつもりだが…。
人より成長ペースが遅いと思って生きてきたけれど…。
いつの間にかの牛蒡抜き。みたいな。

あまりこういうことを口に出したくないですけどね。


折角なので、PNSEとは一体なんなのか?
という説明を少しだけ書き出してみたいと思います。


よろどぞ。




言の葉は虹のしずくのしらべ


月のしずくのしらべじゃないの?
となりますが、月は4次元物質なので今回の趣旨とは少しズレます。

チャクラを表す虹のしずくにした方が的確かと。


言の葉 言語ですね。
言語を操るのは、本当の意味では非常に難しいです。

最近は、やたらと語彙を気にする人が多く見られますが、語彙を増やすのは本当に大変なんですね。
意味を理解できていないと、悪口にしかならないからです。

場を良くしようと美辞麗句を並べ立てようとしたとて、実際によく読んでみると嫌味のオンパレードだった、とかあるあるです。
言葉の意味を理解した上で、自分で組み立てたものではないから…。


近年出版された書籍類は総じて知能が低めに設定されているので、古書などを基準にしないとこの辺りの感覚は読めません。

図鑑でさえ
「こんなの読んでいたらバカになるわ…」
と思って購入を断念し、自分が愛用していた古い本を子にプレゼントしました。


執筆者の認識と言語の波長が合っていないと、言葉に重みが生まれません。
上滑りするだけ。

その辺りの認識のすり合わせのためには、チャクラの超越がどうしても欠かせないものになります。

私はしばらく
「チャクラとか、ないからな」
と訴えてきましたが、それは自分がとうにチャクラを超越していて、それらを操ることが普通すぎたせいです。
当たり前にも程があり、わざわざスピリチュアル言語を用いた説明をするまでもなかった。
というか自覚まで「落とし込む」必要性を感じていなかった、というね。

こういった、当たり前過ぎて存在に気付かない。みたいなことがあるのを知ったのは、2022年でした。
そのあと、こういうことはホントによくあるのだと知って、これじゃ世界はよくならないわな、と思いました。

霊界型ゲシュタルト。
深刻な問題です。


これをスマル認識で例えると

政府の人間は下々のことを何も分かっていない、と民衆はあることないこと罵詈雑言を繰り返しますが、実際は政府官僚は物凄く社会のことについて考えているのです。
しかし、彼らのやることなすこと、真の意味で民衆に届くことがない。
というのも、民衆のニーズを完全には把握しておらず、やることなすこと見当外れなものになってしまうから。
組織と認識の差異によって、連携がうまく取れずに軋轢だけが生まれている、と。
なります。

国を舵取る人間が、きちんとニーズを理解していないこと。
それが霊界型ゲシュタルトとフラクタルです。


国の舵取りなんて、実際は頭のネジがトんでいないと出来ないですけどね。
おこがましくて。
こういう気持ちも、民衆は理解しません。
羨ましいと思っている人さえいます。
そういう人に限って、いざ政界に入ると派閥争いに負けて流されて、平凡な政治家になるんですけどね。


それはともかく。

神霊的に見れば、こういった取りこぼしを拾い集める為に6次元のハンテール校舎は必要になるのです。
ごめんなさいね。
毎回キツイことを言って。



認識の差異を埋めること。
そのための入口が、PNSEです。


アルファベットの羅列だと全く内容が覚えられないので、直訳した言葉を使いますね。

「持続的な象徴的でない経験」

これも、ピンと来ないですね。
ふざけた言い方になりますが、PNSEを「ピン瀬」と呼ぶことにします。

直観そのままに。

ピン!💡と来る瀬。
波が来るのです。
波動係数の動きには違いないですし。


noosologyで言うと、他者宇宙からの外圧で自己はあらしめられる、形が少しずつ作られていく、という基本原理の理解から。

ピン瀬は、外の世界との関係性を一旦断ち切った状態を指します。

「持続的な象徴的経験」
とは
「Ψ3〜Ψ4から外圧を受ける自己」
ですね。



導関数とは違うけれど、その考え方が根底にありますね。
あくまで考え方だけですよ。

素直にそのまま引用し、勝手な解釈で扱うのは誤りです。


物体が発するエネルギーがいつしか大量に集まって束になると、象徴的な概念が生まれます。

ピン瀬は世界全てに存在する象徴的な概念なるものを脱ぎ去り、完全なる自己として丙的な時空からポーン!と抜け出すことを言います。

しかし、この状態は長くは続きません。
すぐに落下傘。
ガイア空間に落ちてしまうのです。

そのまま元止揚に入るか、ダウナーに陥るかで、分岐が分かれますが。



丙的な時空とは、それまで自己をがんじがらめにしてきた最も手近な世界量子のもつれの足枷、と言えば分かりますでしょうか。

自分を苦しめる直接的な原因を生み出す時空です。

この時空は、主に自己から発せられます。
他者との鏡面反射によって発生するΩ領域。
心の負荷です。

ピン瀬とは、なんらかの条件が揃うことによって自分の周囲に取り巻いていた苦渋の空間がスルッと外れることを言います。

時空にも色々あるのですよ。


そしてピン瀬は、現界転生以外では起こりにくくなっています。
現世に生きている間で起こる、特殊状態と言えます。


感性の面から見て
「生きててラッキー♪」
と思わせるボーナスゲシュタルトですね。


一瞬の出来事の筈なんですけど、ピン瀬が終わったことに気付かない人も多く、持続的、という表現があてがわれているようです。

持続は自己のみで、感性は全く持続しません。
象徴を失ったとて、すぐに私達の周囲に自然に集まってきます。

元の木阿弥。

しかし、自己からの視点はかなり広がっていますけどね。



大事なのはプレアデス


認識と認識をつなぎ合わせることが重要。
あれとこれが繋がっていない、と思うから、全く別のものに感じてしまうのです。

面が違うだけで同じだってば。


と思っていたんですけど、プレアデス認識なるものも勝手に解釈を始める人が出てきました。

全く違う繋ぎ方をして、悦に入る人が量産されたようです。

常に斜め上の世界。



プレアデス感覚を養うには、福音という言葉を真剣に考えねばなりません。


福音とはなんなのか?
聖書を指すのか。
耳障りのよい言葉を指すのか。
優しさか。
はたまた皮肉をいうのか。


この辺りの認識が、非常に重要になってきます。

自分にとって福音とはなんなのか?
から始めます。
それが、プレアデス星人に認められる唯一の手がかりです。


明確な答えは存在しません。
なぜって、納得して腑に落ちねば全てが無意味なものとなってしまうから。

安直な答えばかり追い続けると、やがて生きている意味がなくなる。
そういうものです。

コスパはともかく、タイパは死に急ぎの精神なので主軸に置くのは辞めたほうがいいです。

端っこに置いて、オマケ的な感じで悟るものです。
本体よりオマケが好きなんですね。
気持ちは分かりますが。



ピン瀬は慣れないととてつもない快感を生み出すものですが、それはほんの一瞬だけ得られるもので、あの感覚をもう一度得たいと思っても無理です。

過ぎ去った喜びは再来しません。

違う形で得ることもありますが、最初ほどのインパクトはないです。

快感そのものを追い掛けてはいけない。
違う形の何かを探し続けることが求められています。
何故って、人間は慣れる生き物なので。

感情・エモーショナルは、全く同じものは存在しないのです。


オレンジチャクラへの執着を捨てよ。
そうしないと、新しいオレンジチャクラが回って来ないよ。



断片的で不十分な内容ですが、このくらいでお開きとします。


ここまで読んで頂き、ありがとうございました。

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