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産土神に告ぐ


産土(うぶすな)とは

産土神をご存知でしょうか。
うぶすな とは土地神様を指す言葉です。
ここ数年の認識では、産土の神のご利益を得たかったら地元の神社などに参拝し挨拶する、という流れが最適解となっております。
お供えの類などは、神主がされるので一般の参拝客は不要です。
お賽銭が最もご利益が高い。
余計なことをすると、ご利益が遠のきますよ。


気持ちの問題です。
金額は無理のない程度に。
本当は三千円くらいが望ましいですが、なかなかねえ。
破魔矢などが売り出されている場合は、購入することでその分にあてた方がいいかなと。
バイトの巫女が作ったものなんか!
などと言い出したら本末転倒。
あのね、誰にお金を・・・なんて考えないんですよ。
卑しい心の現れですよ。
セコすぎるとして、利潤のトーラスの輪からはじき出されてしまう想念です。
「これがいい」
と思ったら素直に購入するなどして、その先は考えない。
誰がなんと言おうと
「なんかいいことした気がする」
それで充分なんですよ。

神社だけではなく、道祖神なども産土の一種となりますね。
小さな石の祠とか。
地味にありますよね。
そういうのを見つけたら、そっとそばまで赴いて手を合わせる、とするのがbetterでしょう。

しかし、産土の神の本体は神社におられないケースが殆どです。
遠い縁の繋がりで、参拝することで願いが届くことはありましょう。
しかし毎日は難しい。
義務化すると、今度は「オメガ」つまり、はじきだしの力が働いてしまう。
継続は力なりと言いますが、それが敵わないのは向かい風となる力が同時に発生するからです。

自分はこうしたい
→→→→→
しかし、面倒臭さが出てくる…。
←←←←←

気持ちの波に乗れないと、抵抗が発生し負荷となるのです。
そして負荷、負担に負けて継続する心が途絶えてしまいます。

人間の心理として、三日坊主はおろか一日坊主は良くないとされていますね。
しかし、それが人間の本性なんですよ。
続かない。
諦めましょう。
続かないのが普通です。

向かい風に対抗する手段。
それは追い風です。
後ろから風が吹いてくるので、エネルギーの節約が可能。
それを実生活に例えると、生きるのにどうしても必要なルーティンとなります。

三大欲求。
食欲、睡眠欲、排泄欲。
欲求というか生理現象となる3つの要素を満たす行為。

食べる。
寝る。
出す。

その為の手段の延長線ですね。

産土神への慰めの言葉があります。
それは飯塚
ご飯の塚です。
山程の、山程の集まり。
それが塚(物事を成し遂げた象徴の意味)となるくらいのご飯の山。
食べきれないくらいのお供えです。

それを追い風の要素と照らしあわせて全く無駄なく考えていくと、食品量販店に辿り着きます。
スーパーマーケットが、真の産土神を奉る飯塚の地となるのです。
その辺のスーパーに、アストラルの延長からなる真の産土神様が坐す、ということ。

スーパーは毎日お客様の為に食糧を入荷し、陳列していきます。
出来るだけキレイに、見た目良く。
地域の人の為に。
飢える人がないように。
それは、巫覡であるのです。
餓えないように、という産土の願いがカタチとなったもの。

つまり、スーパーに並んでいる食料品は全て神様へのお供えとなるのです。
知らぬ間に。
そこに御神体はなくとも。
星が存在する限り。

追い風に沿った、宇宙の流れ、無理のない参拝。
その願いが顕在化したと思って間違いないです。
ご飯が集まるところには、必ず神様がいる。
だから、ちゃんとお金を払って…お賽銭を渡すのです。

毎日の消費が、お賽銭になる。
普通に暮らしているだけなのに。
「ありがとう」
その一言で、本当に充分で。


まじかよ。
スーパーの店員が、実質的な本当の意味で産土神の神主、巫女となるなんて。
でも、スーパーで働く人はそれだけで徳が爆上がりしますよ。

酒を振る舞う心

私は某宗教団体の信者3世として生を受けました。
祖母が入信し、母も自然に入信。
父も同じく。
その流れで、母のお腹に宿る前から宗教団体に所属することが義務付けられていました。

だからといって熱心な信者であるということはないです。
宗教の心を学ばせて頂きましたが、とうに離れています。
向かい風に負けて、継続が出来なかったのです。

教義の本も読み漁りましたが、元々読書が好きということもあって、暇だから読んでいたという感じです。
そこで洗脳とか無いですよ。
「へえ。そういうのがあるんやな」
そのくらいです。
家に本が置いてあれば、なんとなくの流れで読みますよね。

図書館に通うのが好きでした。
家にない本を借りて読む。
お金が無かったので、社会人になって収入を得るまで自由に買い物が出来ませんでしたが、無いならないなりに工夫して楽しめばよし。
行政もそれ相応のサービスを用意してくれている。
恵まれた国ですよね。

良く読んだのが、星新一です。
ショートショートを読み漁り、楽しんでいました。

興味深い作品は幾つもありましたが、その中の一つ。

とある男は、山道を散歩するのが日課でした。
ある日、男は巨大な石の塚を見つけ、横に倒して座って休憩しました。
そうして、ポケットからウイスキーの小瓶を取り出して飲みました。
少しばかり溢しましたが、外なので気にしません。
するとその晩、夢に仙人が出てきました。
「我の封印を解いたことに感謝する。恨み石をなぎ倒し、酒まで振る舞ってくれた。お主に能力を授けよう」
そうして男は、願えば人を殺せる能力をさずかったのですが…。

タイトルを失念しました

というお話。
男の行動はとても褒めたものではありません。
石の上に座るな。
昼酒か、全くいい気なもんだな。

それはおいといて、酒を零す、という部分ですね。
その時、私は思いました。
「お酒のお供えってそんなに重要なのか」
と。
星新一のショートショートは創作であり、とても褒められた行動ではないとして参考にしていけない部分です。

しかし、それから10年以上経って、お酒のお供えを思い起こす出来事が起こりました。

鹿児島に引っ越したある日、義父に挨拶せねばと一升瓶の焼酎を買いました。
お向かいに住むご近所さんにも、と幾つか生協で購入し駐車場に戻った時。
突然、酒瓶が割れてしまったのです。
「ああ!高かったのに!」
ビニール袋の中が徐々に酒で満たされていくのを絶望的な気持ちで眺めたあと、後処理をどうしようかと考えました。

飲めないですよね。
瓶のガラスの破片が混じっているし衛生上良くないし、割れた状態で義父に渡すなんてとんでもない。
だから、ビニールに小さな穴を開けて生協の駐車場中を歩き回りました。
仕方ないです。
その場に捨てるわけにもいかない。
酒を一面に撒き散らしたあと、ふと先程の星新一の小説を思い出しました。

「あ、酒を振る舞ったのかもしれない」と。

お酒は買い直しました。
割れた瓶はまとめて、危険物の日に燃えないゴミとして出しました。
片付けにちょっと骨が折れました。
私のドジとは思いたくない。
丁重に扱っていたはずなのに、急に割れてしまったのですから。

今になって分かりました。
あれは、生協に宿る産土神への挨拶だったのだと。

しかし、これは必然だったのです。
皆様は絶対に真似をしてはいけません。
ご利益欲しさにわざとそんな真似をすれば、スーパーに迷惑をかけることになり逆に産土神に怒られちまいますからね。
厄災が降りかかるでしょう。

この偶発的に起こった「御神事」なるものは、思わぬ瞬間に発現します。

え、こういう体験したいんだけど!
となったら、まず親族を大事にしましょう。
私は義実家と上手くやっていきたいと願って、酒を買いました。
ついでに、ちょっとお高いお線香をこっそり義実家の仏壇に添えました。
詳しくは分からないですが、お大師様を奉られていたので。

宗教施設にご奉納をしたいと思ったら、まずそこの担当者になにをすればよいか訊きます。
塩対応されたら、縁がなかった、もしくは何もしなくても良いという啓示です。
そこで逆恨みなんぞしようものなら、いらぬ神罰・仏罰を受けることになります。
郷に入れば郷に従え。
それが基本。
そのくらいのことも出来ないような人間に、ご利益なんて降ってくる訳がないんですよ。
好き勝手な行動を振る舞いたければ余所でどうぞ。
ルールが敷かれた場所ではルールに従う。
それが、真の徳上げへの道です。

単刀直入に言うと、振る舞いの心です。
限度はあるが、ケチケチするな。

全の仲間入りをしたかったら

全は一 一は全
という考え方がありますね。
どこからの出典か分かりません。
私は鋼の錬金術師を読んで覚えて、重要だと思ってそのままでいます。

全とは善、膳であり禅です。
性悪説としか思えない世の中ですが、根底には性善説が根付いています。
この世界に限りませんが、三千世界全てから見た全宇宙の中枢、元となる部分は善寄りだよということ。
例え、あなたの環境が悪にしか見えなくてもね。
辛いのは試練のさなかにいるからです。
嫌だというのなら、ちょっと我慢して環境を変えるしかないですね。
意識の差異が生じておりますね。
思うような善ではないかもしれません。

魔法陣を紹介しましたね。

ぜんかつよう の環状文字列陣。
トーラスの流れの全てを活用できる、めっちゃデキる人の仲間入りを果たせるよう後押しをしてくれるオシウスの魔法です。

ぜんかつよう という読み方にかぎらず
つようぜんか
うぜんかつよ
かつようぜん
などの意味もあります。
駄洒落っぽいですねえ。
なんか苦しい感じの読み方ですが、受け取った印象があなたの今の次元。

産土=ぜん
に繋がるものです。
産土の力を借りたいと思ったら、ぜんを意識すること。
これが重要。

わかんない・・・
つかれた・・・
と思ったら、座禅をくむのがいいですよ。

あることないこと考えたり、頭の中を無にしてリセットします。
瞑想に正解はないです。
ジッとして、その時の自分の中の周波数・波動定数と向き合うのが重要。
振動数は大きけりゃいいってもんじゃありません。
コントロールが出来るように、自分で自分を制御します。
あらゆる神々の力を借りることも重要ですが、結局エンジンをかけてアクセルを踏み、ブレーキをかけるのは自分自身。
マニュアル車が基本です。
クラッチ操作が出来れば完璧。
オートマが良いのであれば、プレートの力を借りるのみです。

ガソリン満タン、ご飯をいっぱい食べてまた頑張ろうね。
というのが宇宙の総意です。
電気自動車がいいなーと思う人は、タキオンエネルギー、知の力をもっと集めたいという願望が現れています。
充電に時間がかかるので、少数派として落ち着きそうですね。

さっさと動けなければ、天からの啓示もご利益も降りてこないのです。
禅、自分の身の回りを質素な感じに充実させて初めて、前に進むことが出来る。
ご利益はその後です。

自分の中の産土神に告げましょう。
「何をすれば満たされますか?」と。

日本の産土神が飯塚、食品ロスが出るまでご飯で溢れさせるようになったのは昭和天皇の願いからです。

昭和20年12月10日、昭和天皇は当時の松村謙三農林大臣を宮中に呼ばれ、以下のように伝えられた。
「戦争で塗炭の苦しみを受けた国民に、このうえ餓死者を出すことは自分には耐え難い。政府の要請にアメリカは食糧を与えてくれないというが、考えれば当方に代償として提供すべき何物もないのだからいたしかたない。それで、聞けば皇室の御物(ぎょぶつ=宝物〔ほうもつ〕)の中には国際的価値のあるものが相当にあるとのことだから、これを代償としてアメリカに渡し、食糧に代えて国民の飢餓を1日でもしのぐようにしたい」。
そう仰って、帝室博物館の館長に命じて作らせた皇室御物の目録を渡されたという(松村氏『三代回顧録』昭和39年)。
松村氏はこれを幣原喜重郎首相に渡し、幣原氏がマッカーサーに同趣旨を伝えた。
これに対し、マッカーサーは以下のように答えた。
「天皇のお考えはよくわかるが、自分としてもアメリカとしても、皇室の御物を取り上げてその代償に食糧を提供するなどは面目にかけてもできない。しかし国民を思われる天皇のお気持ちは十分に了解したので、私が責任を持って必ず本国から食糧を輸入する方法を講じる」と。
その後、マッカーサーが実際にアメリカに食糧を要請した事実が知られている。
この件に関して、昭和54年8月29日に記者らが直接、そうした事実があったのかお尋ねしたところ、昭和天皇のお答えは次の通りだった。
「そういうことがあったのは事実です。しかし、自分のしたことですから余り公にしたくありません」

朝日新聞 昭和54年8月30日付朝刊より

台湾、朝鮮の民を含めた全員が餓えないよう、マッカーサーに食料支援を頼んだ話は有名ですね。

その願いが、昭和を越えて平成、令和まで続いているのです。

願いはいつか、実現する。
タイムラグはあるかもしれないけれど。
万人に理解を得られないかもしれないけれど。


ここまで読んで頂き、ありがとうございました。


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