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簡単に「わかる」と言ってはいけないし、すぐに「わからない」と言ってもいけない

橋本 憲幸(ハシモト ノリユキ)
国際政策学部国際コミュニケーション学科 准教授
教育学(国際教育開発論・教育哲学) 

「まだ勉強することあるの?」と言われたことがあります。それはたしか、なかなか脱出できない大学院生活のただ中のことで、いまから振り返るなら、そこには〝いつまで学生しているの?〟という意味も込められていたようにも思われます。しかし、ここでは素直に文字どおり「まだ勉強することあるの?」と受け止めることにしましょう。つまり、〝たくさん勉強したのだからもう勉強することないでしょう?〟という問いかけについて、少し考えてみます。

 この問いの前提には、〝研究を続けるとわかることが増える〟という見立てがあります。たしかにその側面もありますが、それだけではありません。研究をすればするほど、わからないことも増えていきます。自分の不勉強を痛感させられます。そしてさらに研究をする。またわからないことが出てくる。今度はそれを研究する。するとまた……というふうに、ずっと続きます。いまもそうです。

 もちろん、わかることも出てきます。〝わかった〟と思うこともある。でもそれはいつも〝自分が何をわかっていないかをわかる〟という気づきを伴います。〝実はあのことはよくわかっていなかった、わかったつもりになっていただけだった〟と気づかされます。純粋にわかることだけが積み重なっていくわけではありません。〝わかる〟が積み重なったら、それと同じくらいの、あるいはそれ以上の〝わからない〟がやってきます。何かがわかるということは、別の何かがわからなくなるということでもあります。そしてこれを繰り返していると、〝わかった〟と思っても、〝待て、本当にそうか〟と立ち止まるようになっていきます。

 だから大学で講義をしていて、学生に「ここがよくわかりました」と最後の振り返り(リフレクション)のときに書かれると不安になります。よかったと素直に思えない。「ここがわかったと思ったが、こうも考えられることに気づいてよくわからなくなった」だと安心します。よかったと思う。わからなくなってよかったというのも不思議に感じられるかもしれませんが、でもそうなのです。

 私の講義には、わからせたい、というよりも、わからなくさせたい、という意図のほうが強く込められています。それはこれまで述べてきたこととも関わりがありますが、それよりも私の専門が教育学であることに強く関係しています。

 誰もが何かしらの教育を受けた体験があります。だから、教育とはこうだ、教育はこうあるべきだとすぐに断言できてしまう。教育について自分はわかっているという気分になる。教育に関する意見はとても簡単に持ててしまいます。そして、各自が意見を持っていればよい、その意見はお互いに違っていてよい、考え方は人それぞれだとも思われがちです。

 しかし、それはどのくらい妥当な見方でしょうか。教育に関する意見は、長らく教育を受けるなかで個人のなかに根づいていくところがある。だから反省されたり更新されたりする機会がなかなかありません。また、議論しようとしても、〝そういう考え方もある〟で終わり、やりとりが続かないこともある。つまり、それぞれが自分の教育の信念のようなものを表明して終わってしまうわけです。

 そのうち、自らの主観のなかで純度高く培養された教育への思いに従って、今度は他者を教育することになります——友人として、同僚として、親として、教師として、隣人として。それは教育を通して、自身の思いに他者を一方的に巻き込んでいくということです。これは非常に危ういことのように思えます。

 講義でわからなくさせるということの意味は、この自分のなかに強固に抱かれた教育の思いをいったんほぐす、ばらすということです。それは、自身の教育に関する思いを相対化し、思考の対象にするということでもあります。教育について思うだけでなく考える。教育がそう簡単にわかるものだとは思えません。

 しかし、教育はわからないとすぐに言ってほしくもない。「わからない」という言葉は知の拒絶として作用することがあります。想定外のところからやってくる新たな知からいまの自分を防衛するときに「わからない」と発出されることがある。それは、勉強しても考えてもわからないということではなく、勉強も思考もはじめから放棄した〝わからない〟です。〝わかった〟という達観も〝わからない〟という諦観も学術にはなじみません。学術に反していると言ってもよい。わかりたいという欲望は湧かなくても、少なくともわかろうと意志してほしい。意志することを続けてほしい。すぐに「わからない」と言うことは、すぐに「わかる」と言うことと同じです。思考や省察といったものが不足している、欠如しているところが同じです。

 わからなくさせる講義を心がけているにもかかわらず、簡単に「わからない」と言ってはいけないというのは、結構無理な要求に映るかもしれません。矛盾さえ感じられるかもしれない。しかし重要なのは、自分なりに考えてみるということです。講義で何千年前何百年前の教育の考え方について説明するのは、その考え方を理解し、それを活用できるようになってほしいからです。理解する、活用する、つまり誰かの思考回路にひとまず入ってみる、誰かの立場にいったん身を置いて考えてみることは、自分の頭で考えるための練習になります。誰かの脳を借りて思考していると、そこに自分が完全に乗りきれないことに気づくことがある。それは、自分なりの思考が小さく、しかししっかりと立ち上がる瞬間です。

「わからない」と言ってよいのは、本当に勉強したあと、考えたあとです。逆に言えば、勉強していないのに、よく考えていないのに「わからない」と言ってはいけない。知って、考えて、調べて、読んで、議論して、書いて、また考えて、考えて、考えて、そしてようやく出てくるのが「わからない」です。「わからない」と言ってよいときが来るのは、もっとずっとあとのはずです。

 勉強することに終わりはありません。勉強することは次から次へと出てきます。どこかで勉強が終わるわけではありません。〝わかる〟も〝わからない〟も一種の出口です。簡単に出口から出てはいけません。出られた、という感触を手にすることもあるかもしれませんが、いま出たと思ったその出口は、次への入口でもあります。勉強からはそれほど容易に抜け出られません。「まだ勉強することあるの?」。勉強すればするほど、まだまだ勉強することがあるのです。