風を切って走る_20240715-17

・自転車を買った。
先日、唐突に「徒歩4時間半のところが自転車だと1時間半か」とつぶやいたのは、販売店から今の住まいまで自走で帰る必要があったからだ。そのルートを調べていた。

なんでもかんでも思いつきでやってしまう。思いついた瞬間には同じく思いつく限りのリスクと対策なんかもいちおう考えていて、天秤にかけてやめることももちろんある。
ルートと体調、もろもろの算段をつけて、今回の判断は「いける」「やってみたい」だった。
ネックは日差しと雨と気温だったが、翌日の予報がちょうど曇りで気温もあまり上がらないという絶好の自転車日和だった。運がいい。


・なんで急に自転車が出てきたかというと、これからの暮らしに必要になるからだ。
これからの暮らしというなら、ほんとうは車がないとかなり行動を制限されることになるので車を手に入れたほうがいい。またいつ手放さなければならないかさっぱりわからない状況で、安い中古車を探すにしてもランニングコスト含め大きなお金が動くので、さすがに慎重にならざるを得ない。あと、あんまりおもしろくない。買うのも手放すのも面倒だなという気持ちが勝つ。
極端な話、5万の中古車は探すのも維持するのもいろいろたいへんそうだし正直不安しかないけど、5万の自転車ならけっこういいものが買えそうだし積極的に乗りたいものが見つかりそうな気がする。そういうことがふとよぎった。
あ、これは私、この機会に自転車に乗りたいと思っているなと感じた瞬間だった。だってそのほうがおもしろそうじゃないか。

・自分で決められることに関しては、わりと「おもしろそう」と「めんどくせー」のバランスが「やるかやらないか」の判断基準になっている気がする。
見る人から見たら妬ましかったり、腹立たしかったり、ゾッとしたりするような見え方をしていると思う。
「またなんかやってるな」ぐらいに流してくれるとありがたい。完全に私による私のための行動を一緒におもしろがってくれる人は貴重だし、ほんとうにやばそうなときに声をかけてくれる人はだいじにしたい、と思っている。



・あきやさんが以前書いていた表現を思い出していた。私には「自転車」が「インストールされた」のでこれまで気にしていなかったところに目がいくようになる。
たとえば「自転車」を思い描いたとき、私の脳内では「ハンドル(前輪)が左側」の絵が浮かんでくる。カタログには「ハンドル(前輪)が右側」の向きで載っていることに気づく。チェーンなどもろもろのパーツが見える向き、ということなのだろう。
ママチャリ、ミニベロ、スポーツバイク、ファットバイク、都会の街にはいろんな人々が乗ったいろんな自転車が走っている。
カゴや荷台はついているか、どんな服装で乗っているか。その人の生活が垣間見える。

・数年前までの私にとって、「車」は生活必需品と言っても過言ではなく、なくてはどうしようもないから乗るしかないものだった。同時に、私だけの空間でもあった。圧倒的にひとりになれる。実家には自分の部屋が設けられていたし、ひとり暮らしも経験しているが、まったくのべつものだった。
ときに車内で飲み食いするし、好きな曲を流して歌もうたう。気持ちの行き場がないときには流れる明かりを見に車を走らせたり、雨が車体にはじかれる音を聞いたりした。
私に必要な時間と空間だった。

・誰かにとってのランニング、登山、水泳、ヨガ、ダンス、そういうものをずっと求めていた。体を動かし、雑念を払い、楽しみつつおのれと向き合うような、そういう自分だけの「動」の方法をもっている人の話を聞くと羨ましく思った。
自転車に乗ることは、私にとってのそれになり得る。滞っていたものが流れる。


・初めて漕ぎ出した瞬間、「あっこれは凶器、そして生身」と感じた。乗る前に頭で考えていたことが、実感を伴って体じゅうに駆けめぐる。
私はいつも心のどこかで「自分が加害者になること」を恐れている。自分のもつ加害性、攻撃性、暴力性、壊す力のようなものに怯え、絶望することがある。それくらいでちょうどいいのかもしれない。わからないけど。車を手放したときに幾分か気楽になったのはこれだった。
もちろん自分がケガをするのも避けたい。しない、させない。楽しむためにも安全第一である。


・一気にモノが増える。
充電式のライト、チェーンロック、ヘルメット、グリップが硬いからグローブも欲しいし、専用の空気入れやメンテナンスの道具もいる。暑さ、汗、雨、必然的に持ち歩くものも増えるだろう。装いも変わるかもしれない。
最適な装備を考えて組み合わせて整えていくこの感じがとても楽しい。
必要なモノを必要なだけもつことが、私の行動力を後押ししてくれる。

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