自問自答ファッション教室に行ってきたよの記録。よく生きるということ。
※2024年2月25日一部加筆(補足)しました
2024年2月17日、自問自答ファッション教室に行ってきたので忘れないように記録しておく。
当日は大きなものにぶつかった衝撃は感じなかった。後になってじわじわちかちかとあちこちに効いてきている。
私はあきやさんという巨木にやさしく受け止められ、導かれ、そしてちょっとだけ苦しめられたのだった。
※おもしろくて実りある楽しい教室でした👗
トップ画像はあきやさんのバッグたちを撮らせていただいたもの。とってもすてきで、とっても「あきやさんの」だった。
いつもどおり自分のことをだらだらと綴っていくよ。
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思ったよりできていた
今までのnoteにもちょこちょこ書いてきてはいるが、教室参加までの流れを軽くまとめておく。
私がnoteで「自問自答ファッション通信さん」を見つけたのはたしか2019年だった。なんかおもしろいことやってる人がいるぞ、と。
そのときの私といえば、すでになんとなく自分なりのスタイルはできていてほぼ制服化して過ごしていたのでとくに「服」には悩んでいなかった。
まあいろいろあって、なににも心が動かない「虚無期」に陥る。闇の中でじっと耐え、ようやくあきやさん式の自問自答に1から取り組んでみようと思ったのが2022年9月ごろ。書籍やnoteを手がかりに自習を深め、すぐに「ファッションの楽しさ」を取り戻し、うれしくなって服を買ったのが同年11月。noteに自問自答ファッション関連の記録をつけ始めたのが2023年1月。アウトプットと交流と教室応募のチャンスをうかがうため、頑なに避け続けてきたTwitterにアカウントをつくったのが同年2月。で、約1年後である今、縁あって教室参加に至る。
さて、教室参加時の私。
当日なにを着ようかとくに迷うこともなく。いつもどおり。コートがいるのかいらないのか、ただそれだけだ(着なかった)。前日に久しぶりにネイルをぬって、アクセサリーは当日の朝の気分で選んだ。
お気に入りの靴、バッグ、アクセサリーがそろっていて、服は年ほぼ3セット(厳密にいえばもうちょっとある)。制服化はできている。
PDCAサイクルも自分で思うよりちゃんとまわせていたらしい(そういうの苦手だしあんまりできてないなーとか思ってた)。
応募の際にあきやさんに送りつけたのがこの内容だ。
なんかもうなにを言っているのだという感じだが、腹をかっさばいて出てきたのがこれだった。そう、私の問題は「ファッション」じゃなかった。そんなこと最初からわかっていたのだ。
自問自答「ファッション」教室なのに、このような者がやってきて……ほんとうに……あきやさんはたいへんだ……(申し訳ない)
ほんとうに、全員ちがう
教室でご一緒した皆さんのことをここに詳しく書くつもりはないが、ぱっと見の印象でもすこしお話しした感じでも、全員それぞれにそれぞれの「すてきさ」があった。もしかしたらご本人方は現状でそう言われるのはあんまりかもしれないけど、それぞれにすでに「ある」と思った。ということは誰かから見たら自分にもすでに「ある」のだろうなと思った。そういうものなのかもしれない。
教室応募の経緯もひとつの言葉に対しての反応もぜんぜんちがって「ほんとうに、全員ちがうなあ」と当たり前のことを繰り返し思っていた。全員の共通点は「自問自答ファッション」だけかもしれないのだ。おもしろすぎる。
私はだいたいいつもひとりだしそれは好んでのことではある。たまにその「偏り」が過ぎるのではないかと心配になることがある。自分のことは自分しかわからないともいえるし、自分のことは自分ではわからないともいえる。「全員ちがう」ことを目の当たりにして私は安堵した。これは「比べる」ではなくて「みとめる(見て留める)」だとなんとなく思った。
(お気に入りアイテムの話とか、好きなこととか、許されるならもっともっと聞きたかったぐらい。はじめましてでそういうパーソナルな話を聞けるのは、私にとってとてもぜいたくで楽しい貴重なひとときでした)
過程、からの今の姿
自問自答ファッションにおいて「優等生」「これが正解」なんていうものはないと思っている。教室当日、私がまるで仕込み(※ちがいます)のような反応をする瞬間があったが、それは実際にあきやさんのすすめる手順を踏んでみてそうする意味や効果をものすごく実感したからだ。具体的にいうとたとえば「まず靴」はとっっっても納得なので、とっかかりがわからないとか靴以外から入ってなんかうまくいかないって人はぜひとも一度靴から決めてみてほしい。
とはいえ先にバッグを買ったって服を買ったってあきやさんは「それもOK☺️」ってきっと言ってくれる。そういうことだ。
私はあきやさん式の自問自答を始める前からほぼ制服化ができていて、同じ服を着続けることが平気なタイプで、服の枚数が少ないほうが気分がよくて、気持ちよくまわせるセット数が3セットだった、たまたまそうだっただけだ。
そこに至るまでには他人からは無駄ともとられかねない積み重ねがある。そして人はそれを失敗と呼ぶのかもしれない。
自問自答ファッションに取り組む前まではあらゆるものをほぼオンラインで購入していた。服も靴もバッグもアクセサリーも試着なしだ。
そんなことができた理由としては、私がそういうものの製作や販売にうっすら携わり続けてそこそこいろんなものを見たり触れたりしてきたとか、服ではないけど美術やデザインの知識がすこしだけあったとか、たまたま自分の体型が日本で売っているレディースものならだいたい着こなせるサイズ感だったとか、そういうことが重なっていろんなアタリがつけやすかったからだ。
そんなことをしてきた理由としては、自分の好むようなものが地元では手に入らなかったとか、店側のいろいろを感じとって勝手に疲弊してしまうので店頭で買い物ができなくなったとか、この世に生まれて以来どこかに必ず皮膚炎の症状があるので肌を見られるのはおろか服を脱ぎ着すること自体がストレスなうえ商品を汚す可能性のある試着などもってのほかと思っていたとか、まあそんなところだ。
あきやさんに聞かれたときに「オンラインの購入成功率90%」と答えたけどこういう経緯で精度を上げてきた最終の値というわけだ(今はすっかり実店舗での試着なしでは買えないようになった。体型も変わって数値的なアタリが読めなくなってきたのも大きい)。
良くも悪くも、私はこういう背景と過程があって今があるというだけだ。それ以上でもそれ以下でもない。他人と比べて良いも悪いもないのだ。
自問自答、見つめるべきはやはり自分である。
私は一次情報をだいじにしたいと考える。
教室でうまれたコンセプト(仮)
あきやさんといっしょにつくったのがこちら。
【強くて本質的でナチュラルな
身近な人をおだやかで楽しい気持ちにさせる
暮らしをつくる人】
思っていたより言葉数が多い仕上がりになった。ここから変わっていく前提ではあって、それでも今はこうなるべくしてこうなったのがわかる。
最初の「強くて本質的でナチュラルな」と3つ並んだところで、ああなんかすごく私の組み合わせだな……と思った。そこでナチュラルがくるのか……みたいな。自分で選んだんだけど。「自然体」はあんまりピンとこなかったりする。自然体より自然、ネイチャーである。あきやさんも言っていたことで、同じような意味合いに見えても「これはあんまりだけどこっちなら好きだな」みたいなのがある。言い換えたり分解したりすると自分にしっくりくるものが見つかったりする。私はこの作業が好きだ。言葉っておもしろいね。
「暮らしをつくる人」については、「つくる人」「職人さん」もあって最後までもにょもにょしつついったんこれにおさまった。
暮らしをつくる人。これ、自問自答ファッションを知って最初に自分でつくってみたときと同じなのだ。なんならそのずっと前から「暮らし」と「森」は君臨し続けている。
ちなみに今回コンセプトには入れなかったけど、ずっと森(山)に住んでいる。ぶれない。
約1年前の自分が書いたこの記事をあらためて見返しても、まあおもしろいほど同じこと言ってますわ。戻ってきたが、ぐるぐると、螺旋だ。同じようでいてちょっとずつ進んでいるのである。
「暮らしをつくる人」でなんでもにょもにょしたかっていうと、私がやりたいのがほんとうに「暮らし」なのかずっと疑念を抱いていたからだ。
私はいつでも私のことを誰よりも信じていて、誰よりも疑っている。できていないからやりたいだけかもしれないとか。そういうことを考える。「なりたい姿と今の自分が違い過ぎるときどうしたらいいか」について、教室であきやさんも「なりたいで出てくるのは自分の中にもうあるものだと考えます(=育てていく)」「今そうじゃないからなりたいっていうのはやめたほうがいいかな」というニュアンスのことを言っていて、そうだよなって。
※あきやさんがおっしゃっていたのは、「『心からのなりたい』じゃなければ捨ててもいいと思う」ということです。たとえば「誰かに言われたから(なったほうがいいかなと思って)そうならなきゃ」とか、そういうもののことです(2024年2月25日追記)
今回の「暮らし」がどこからきたかというと、「お金の心配がなければやりたいこと」でやっぱりどうしてもあちこちに出てきたのだ。
私は「やってみたい体験」で「日本各地に住んでみたい」と挙げた。旅行は興味ないけど住んでみたい、と言ったところであきやさんが「暮らしがやりたいんですね」と。なんせ「やりたい仕事・ライフワーク」に「自給自足」って挙げてるからね。「お金の心配がなくてもやりたい」と力強く宣言したところで誰ひとり賛同を得られなかったけど、むしろお金の心配がないから心置きなくできるという。
「職人さん」「つくる人」については「で、なにを?」って話。「絵を描く、ものをつくる」ことに対する気持ちが捨てきれない。昔はそうだった、今はそれができない。息をするようにできなくなったならライフワークとはいえない、私はそういう人間じゃないってことなのでは、これこそ「今そうじゃないからなりたい」なのではってずっとぐるぐるしている。この部分についてはまだどうしたいのかわからない。
「つくる人」「暮らす人」と口に出して繰り返しながら、私は「『絵を描く』や『つくる』は『暮らし』に含まれていてほしい」とこぼした。
なんでもやりたくなったらやればいいし、やりたくなくなったらやめればいいし、またやりたくなったらまたやればいいと思っている。
私の言う「よく生きる」とは、結果がどうであれそういうことをどれだけ自分で感じとって動いて考えて積み上げられたかってことなのではないか。だからべつになにやっててもいいんだよね。身も蓋もないが。
道しるべのようなもの、その先
服選びに迷ったとき、私が肩に乗せるのは「11ぴきのねこ」になった。おなじみのYA○AWA的存在のことだ。
「おれはいいけどねこたちはなんて言うかな?」である。えっ……だいじょうぶかな……ねこ、11ぴきも乗る?重くない?ねこ、頼りになる?こっち見てなくない??あっどこ行くの!もどってきて!!
好きな人(人?)と言われて思いつくまま挙げてみた中であえて乗せるなら……というところでいったんこうなった。
教室のあと、あきやさんから届いたメールの中にあった言葉がこれだ。
これを読んだ瞬間、小さく、でもたしかに、ぱーんとなにかがひらけた感じがした。
・・・
最後に、応募時のアンケートに書いた私の好きなあきやさんの記事を貼っておきます。
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必要としているすべての人に
あきやさんの思いが届きますように。
それぞれのよきときに
機会がおとずれますように!
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